》を持っているのがあった。その胸に書かれた「中将湯《ちゅうじょうとう》」という文字を、何《なに》げなしに一字ずつ読み下すと、彼女は突然私生児の定子の事を思い出した。そしてその父なる木部の姿は、かかる乱雑な連想の中心となって、またまざまざと焼きつくように現われ出た。
その現われ出た木部の顔を、いわば心の中の目で見つめているうちに、だんだんとその鼻の下から髭《ひげ》が消えうせて行って、輝くひとみの色は優しい肉感的な温《あたた》かみを持ち出して来た。汽車は徐々に進行をゆるめていた。やや荒れ始めた三十男の皮膚の光沢《つや》は、神経的な青年の蒼白《あおじろ》い膚の色となって、黒く光った軟《やわ》らかい頭《つむり》の毛がきわ立って白い額をなでている。それさえがはっきり[#「はっきり」に傍点]見え始めた。列車はすでに川崎《かわさき》停車場のプラットフォームにはいって来た。葉子の頭の中では、汽車が止まりきる前に仕事をし遂《おお》さねばならぬというふうに、今見たばかりの木部の姿がどんどん若やいで行った。そして列車が動かなくなった時、葉子はその人のかたわらにでもいるように恍惚《うっとり》とした顔つきで、
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