たがめんどうだと思って、
「いいからはいっていてください。おおげさに見えるといやですから……大丈夫あぶなかありませんとも……」
といい足した。古藤はしいてとめようとはしなかった。そして、
「それじゃはいっているがほんとうにあぶのうござんすよ……用があったら呼んでくださいよ」
とだけいって素直《すなお》にはいって行った。
「Simpleton!」
葉子は心の中でこうつぶやくと、焼き捨てたように古藤の事なんぞは忘れてしまって、手欄《てすり》に臂《ひじ》をついたまま放心して、晩夏の景色をつつむ引き締まった空気に顔をなぶらした。木部の事も思わない。緑や藍《あい》や黄色のほか、これといって輪郭のはっきり[#「はっきり」に傍点]した自然の姿も目に映らない。ただ涼しい風がそよそよと鬢《びん》の毛をそよがして通るのを快いと思っていた。汽車は目まぐるしいほどの快速力で走っていた。葉子の心はただ渾沌《こんとん》と暗く固まった物のまわりを飽きる事もなく幾度も幾度も左から右に、右から左に回っていた。こうして葉子にとっては長い時間が過ぎ去ったと思われるころ、突然頭の中を引っかきまわすような激しい音を
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