。そして彼は自分がこれほどまで誇りを捨てて与えようとした特別の好意を眦《まなじり》を反《かえ》して退けたのだ。
 やせた木部の小さな目は依然として葉子を見つめていた。
 この時突然けたたましい笑い声が、何か熱心に話し合っていた二人《ふたり》の中年の紳士の口から起こった。その笑い声と葉子となんの関係もない事は葉子にもわかりきっていた。しかし彼女はそれを聞くと、もう欲にも我慢がしきれなくなった。そして右の手を深々《ふかぶか》と帯の間にさし込んだまま立ち上がりざま、
 「汽車に酔ったんでしょうかしらん、頭痛がするの」
 と捨てるように古藤にいい残して、いきなり[#「いきなり」に傍点]繰り戸をあけてデッキに出た。
 だいぶ高くなった日の光がぱっと大森田圃《おおもりたんぼ》に照り渡って、海が笑いながら光るのが、並み木の向こうに広すぎるくらい一どきに目にはいるので、軽い瞑眩《めまい》をさえ覚えるほどだった。鉄の手欄《てすり》にすがって振り向くと、古藤が続いて出て来たのを知った。その顔には心配そうな驚きの色が明《あか》らさまに現われていた。
 「ひどく痛むんですか」
 「ええかなりひどく」
 と答え
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