いましたね」という言葉が、名もないものをあわれんで見てやるという腹を充分に見せていた。今まで事務長の前で、珍しく受け身になっていた葉子は、この言葉を聞くと、強い衝動を受けたようになってわれに返った。どういう態度で返事をしてやろうかという事が、いちばんに頭の中で二十日鼠《はつかねずみ》のようにはげしく働いたが、葉子はすぐ腹を決めてひどく下手《したで》に尋常に出た。「あ」と驚いたような言葉を投げておいて、丁寧に低くつむりを下げながら、
 「こんな所まで……恐れ入ります。わたし早月葉《さつきよう》と申しますが、旅には不慣れでおりますのにひとり旅でございますから……」
 といってひとみを稲妻のように田川に移して、
 「御迷惑ではこざいましょうが何分よろしく願います」
 とまたつむりを下げた。田川はその言葉の終わるのを待ち兼ねたように引き取って、
 「何不慣れはわたしの妻も同様ですよ。 何しろこの船の中には女は二人《ふたり》ぎりだからお互いです」
 とあまりなめらかにいってのけたので、妻の前でもはばかるように今度は態度を改めながら事務長に向かって、
 「チャイニース・ステアレージには何人《なんに
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