しい圧迫を打ち破ろうと思ってもそれができなかった。今何か物をいったらきっとひどい不自然な物のいいかたになるに決まっている。そうかといってその船員には無頓着《むとんじゃく》にもう一度前のような幻想に身を任せようとしてもだめだった。神経が急にざわざわと騒ぎ立って、ぼーっと煙《けぶ》った霧雨《きりさめ》のかなたさえ見とおせそうに目がはっきり[#「はっきり」に傍点]して、先ほどのおっかぶさるような暗愁は、いつのまにかはかない出来心のしわざとしか考えられなかった。その船員は傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に衣嚢《かくし》の中から何か書いた物を取り出して、それを鉛筆でチェックしながら、時々思い出したように顔を引いて眉《まゆ》をしかめながら、襟《えり》の折り返しについたしみを、親指の爪《つめ》でごしごしと削ってははじいていた。
葉子の神経はそこにいたたまれないほどちかちかと激しく働き出した。自分と自分との間にのそのそと遠慮もなく大股《おおまた》ではいり込んで来る邪魔者でも避けるように、その船員から遠ざかろうとして、つと手欄《てすり》から離れて自分の船室のほうに階子段《はしごだん》を降りて行こうとした。
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