っしゃってくださいまし」
叔父があわてて口の締まりをして仏頂面《ぶっちょうづら》に立ち返って、何かいおうとすると、葉子はまたそれには頓着《とんじゃく》なく五十川《いそがわ》女史のほうに向いて、
「あの肩の凝《こ》りはすっかり[#「すっかり」に傍点]おなおりになりまして」
といったので、五十川女史の答えようとする言葉と、叔父のいい出そうとする言葉は気まずくも鉢合《はちあ》わせになって、二人《ふたり》は所在なげに黙ってしまった。座敷は、底のほうに気持ちの悪い暗流を潜めながら造り笑いをし合っているような不快な気分に満たされた。葉子は「さあ来い」と胸の中で身構えをしていた。五十川女史のそばにすわって、神経質らしく眉《まゆ》をきらめかす中老の官吏は、射るようないまいましげな眼光を時々葉子に浴びせかけていたが、いたたまれない様子でちょっと居ずまいをなおすと、ぎくしゃく[#「ぎくしゃく」に傍点]した調子で口をきった。
「葉子さん、あなたもいよいよ身のかたまる瀬戸ぎわまでこぎ付けたんだが……」
葉子はすきを見せたら切り返すからといわんばかりな緊張した、同時に物を物ともしないふうでその男の目を迎えた。
「何しろわたしども早月家《さつきけ》の親類に取ってはこんなめでたい事はまずない。無いには無いがこれからがあなたに頼み所だ。どうぞ一つわたしどもの顔を立てて、今度こそは立派な奥さんになっておもらいしたいがいかがです。木村君はわたしもよく知っとるが、信仰も堅いし、仕事も珍しくはき[#「はき」に傍点]はきできるし、若いに似合わぬ物のわかった仁《じん》だ。こんなことまで比較に持ち出すのはどうか知らないが、木部氏のような実行力の伴わない夢想家は、わたしなどは初めから不賛成だった。今度のはじたい[#「じたい」に傍点]段が違う。葉子さんが木部氏の所から逃げ帰って来た時には、わたしもけしからんといった実は一人《ひとり》だが、今になって見ると葉子さんはさすがに目が高かった。出て来ておいて誠によかった。いまに見なさい木村という仁なりゃ、立派に成功して、第一流の実業家に成り上がるにきまっている。これからはなんといっても信用と金だ。官界に出ないのなら、どうしても実業界に行かなければうそだ。擲身《てきしん》報国は官吏たるものの一特権だが、木村さんのようなまじめな信者にしこたま[#「しこたま」に傍点]金を造ってもらわんじゃ、神の道を日本に伝え広げるにしてからが容易な事じゃありませんよ。あなたも小さい時から米国に渡って新聞記者の修業をすると口ぐせのように妙な事をいったもんだが(ここで一座の人はなんの意味もなく高く笑った。おそらくはあまりしかつめらしい空気を打ち破って、なんとかそこに余裕《ゆとり》をつけるつもりが、みんなに起こったのだろうけれども、葉子にとってはそれがそうは響かなかった。その心持ちはわかっても、そんな事で葉子の心をはぐらかそうとする彼らの浅はかさがぐっ[#「ぐっ」に傍点]と癪《しゃく》にさわった)新聞記者はともかくも……じゃない、そんなものになられては困りきるが(ここで一座はまたわけもなくばからしく笑った)米国行きの願いはたしかにかなったのだ。葉子さんも御満足に違いなかろう。あとの事はわたしどもがたしかに引き受けたから心配は無用にして、身をしめて妹さん方《がた》のしめし[#「しめし」に傍点]にもなるほどの奮発を頼みます……えゝと、財産のほうの処分はわたしと田中さんとで間違いなく固めるし、愛子さんと貞世さんのお世話は、五十川《いそがわ》さん、あなたにお願いしようじゃありませんか、御迷惑ですが。いかがでしょう皆さん(そういって彼ヘ一座を見渡した。あらかじめ申し合わせができていたらしく一同は待ち設けたようにうなずいて見せた)どうじゃろう葉子さん」
葉子は乞食《こじき》の嘆願を聞く女王のような心持ちで、○○局長といわれるこの男のいう事を聞いていたが、財産の事などはどうでもいいとして、妹たちの事が話題に上るとともに、五十川女史を向こうに回して詰問のような対話を始めた。なんといっても五十川女史はその晩そこに集まった人々の中ではいちばん年配でもあったし、いちばんはばかられているのを葉子は知っていた。五十川女史が四角を思い出させるような頑丈《がんじょう》な骨組みで、がっしり[#「がっしり」に傍点]と正座に居直って、葉子を子供あしらいにしようとするのを見て取ると、葉子の心は逸《はや》り熱した。
「いゝえ、わがままだとばかりお思いになっては困ります。わたしは御承知のような生まれでございますし、これまでもたびたび御心配かけて来ておりますから、人様《ひとさま》同様に見ていただこうとはこれっぱかりも思ってはおりません」
といって葉子は指の間になぶっていた楊枝《ようじ》を
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