寄って別れを惜しむというその席に顔を出すのが、自分自身をばかにしきったことのようにしか思われなかった。こんなくらいなら定子の所にでもいるほうがよほどましだった。こんな事のあるはずだったのをどうしてまた忘れていたものだろう。どこにいるのもいやだ。木部の家を出て、二度とは帰るまいと決心した時のような心持ちで、拾いかけた草履をたたきに戻《もど》そうとしたその途端に、
「ねえさんもういや……いや」
といいながら、身を震わしてやにわに胸に抱きついて来て、乳の間のくぼみに顔を埋《うず》めながら、成人《おとな》のするような泣きじゃくり[#「じゃくり」に傍点]をして、
「もう行っちゃいやですというのに」
とからく[#「からく」に傍点]言葉を続けたのは貞世《さだよ》だった。葉子は石のように立ちすくんでしまった。貞世は朝からふきげんになってだれのいう事も耳には入れずに、自分の帰るのばかりを待ちこがれていたに違いないのだ。葉子は機械的に貞世に引っぱられて階子段《はしごだん》をのぼって行った。
階子段をのぼりきって見ると客間はしん[#「しん」に傍点]としていて、五十川《いそがわ》女史の祈祷《きとう》の声だけがおごそかに聞こえていた。葉子と貞世とは恋人のように抱き合いながら、アーメンという声の一座の人々からあげられるのを待って室《へや》にはいった。列座の人々はまだ殊勝らしく頭をうなだれている中に、正座近くすえられた古藤《ことう》だけは昂然《こうぜん》と目を見開いて、襖《ふすま》をあけて葉子がしとやかにはいって来るのを見まもっていた。
葉子は古藤にちょっと目で挨拶《あいさつ》をして置いて、貞世を抱いたまま末座に膝《ひざ》をついて、一同に遅刻のわびをしようとしていると、主人座にすわり込んでいる叔父《おじ》が、わが子でもたしなめるように威儀を作って、
「なんたらおそい事じゃ。きょうはお前の送別会じゃぞい。……皆さんにいこうお待たせするがすまんから、今五十川さんに祈祷《きとう》をお頼み申して、箸《はし》を取っていただこうと思ったところであった……いったいどこを……」
面と向かっては、葉子に口小言《くちこごと》一ついいきらぬ器量なしの叔父が、場所もおりもあろうにこんな場合に見せびらかしをしようとする。葉子はそっち[#「そっち」に傍点]に見向きもせず、叔父の言葉を全く無視した態度で急に晴れやかな色を顔に浮かべながら、
「ようこそ皆様……おそくなりまして。つい行かなければならない所が二つ三つありましたもんですから……」
とだれにともなくいっておいて、するすると立ち上がって、釘店《くぎだな》の往来に向いた大きな窓を後ろにした自分の席に着いて、妹の愛子と自分との間に割り込んで来る貞世の頭をなでながら、自分の上にばかり注がれる満座の視線を小うるさそうに払いのけた。そして片方の手でだいぶ乱れた鬢《びん》のほつれをかき上げて、葉子の視線は人もなげに古藤のほうに走った。
「しばらくでしたのね……とうとう明朝《あした》になりましてよ。木村に持って行くものは、一緒にお持ちになって?……そう」
と軽い調子でいったので、五十川女史と叔父とが切り出そうとした言葉は、物のみごとにさえぎられてしまった。葉子は古藤にそれだけの事をいうと、今度は当《とう》の敵ともいうべき五十川女史に振り向いて、
「おばさま、きょう途中でそれはおかしな事がありましたのよ。こうなんですの」
といいながら男女をあわせて八人ほど居ならんだ親類たちにずっと目を配って、
「車で駆け通ったんですから前も後《あと》もよくはわからないんですけれども、大時計のかどの所を広小路《ひろこうじ》に出ようとしたら、そのかどにたいへんな人だかりですの。なんだと思って見てみますとね、禁酒会の大道演説で、大きな旗が二三本立っていて、急ごしらえのテーブルに突っ立って、夢中になって演説している人があるんですの。それだけなら何も別に珍しいという事はないんですけれども、その演説をしている人が……だれだとお思いになって……山脇《やまわき》さんですの」
一同の顔には思わず知らず驚きの色が現われて、葉子の言葉に耳をそばだてていた。先刻しかつめらしい顔をした叔父《おじ》はもう白痴のように口をあけたままで薄笑いをもらしながら葉子を見つめていた。
「それがまたね、いつものとおりに金時《きんとき》のように首筋までまっ赤《か》ですの。『諸君』とかなんとかいって大手を振り立ててしゃべっているのを、肝心《かんじん》の禁酒会員たちはあっけに取られて、黙ったまま引きさがって見ているんですから、見物人がわい[#「わい」に傍点]わいとおもしろがってたかっているのも全くもっともですわ。そのうちに、あ、叔父さん、箸《はし》をおつけになるように皆様にお
前へ
次へ
全85ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング