しばらくの間《あいだ》葉子はこの奇怪な心の動揺のために店を立ち去る事もしないでたたずんでいたが、ふとどうにでもなれという捨てばちな気になって元気を取り直しながら、いくらかの礼をしてそこを出た。出るには出たが、もう車に乗る気にもなれなかった。これから定子に会いに行ってよそながら別れを惜しもうと思っていたその心組みさえ物憂《ものう》かった。定子に会ったところがどうなるものか。自分の事すら次の瞬間には取りとめもないものを、他人の事――それはよし自分の血を分けた大切な独子《ひとりご》であろうとも――などを考えるだけがばかな事だと思った。そしてもう一度そこの店から巻紙《まきがみ》を買って、硯箱《すずりばこ》を借りて、男恥ずかしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れるつもりだったが、それができなくなったから、この後とも定子をよろしく頼む。当座の費用として金を少し送っておくという意味を簡単にしたためて、永田から送ってよこした為替《かわせ》の金を封入して、その店を出た。そしていきなり[#「いきなり」に傍点]そこに待ち合わしていた人力車の上の膝掛《ひざか》けをはぐって、蹴込《けこ》みに打ち付けてある鑑札にしっかり[#「しっかり」に傍点]目を通しておいて、
 「わたしはこれから歩いて行くから、この手紙をここへ届けておくれ、返事はいらないのだから……お金ですよ、少しどっさり[#「どっさり」に傍点]あるから大事にしてね」
 と車夫にいいつけた。車夫はろくに見知りもないものに大金を渡して平気でいる女の顔を今さらのようにきょと[#「きょと」に傍点]きょとと見やりながら空俥《からぐるま》を引いて立ち去った。大八車《だいはちぐるま》が続けさまに田舎《いなか》に向いて帰って行く小石川の夕暮れの中を、葉子は傘《かさ》を杖《つえ》にしながら思いにふけって歩いて行った。
 こもった哀愁が、発しない酒のように、葉子のこめかみをちかちかと痛めた。葉子は人力車の行くえを見失っていた。そして自分ではまっすぐに釘店《くぎだな》のほうに急ぐつもりでいた。ところが実際は目に見えぬ力で人力車に結び付けられでもしたように、知らず知らず人力車の通ったとおりの道を歩いて、はっ[#「はっ」に傍点]と気がついた時にはいつのまにか、乳母が住む下谷《したや》池《いけ》の端《はた》の或《あ》る曲がり角《かど》に来て立っていた。
 そこで葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちどまってしまった。短くなりまさった日は本郷《ほんごう》の高台に隠れて、往来には厨《くりや》の煙とも夕靄《ゆうもや》ともつかぬ薄い霧がただよって、街頭のランプの灯《ひ》がことに赤くちらほらちらほらとともっていた。通り慣れたこの界隈《かいわい》の空気は特別な親しみをもって葉子の皮膚をなでた。心よりも肉体のほうがよけいに定子のいる所にひき付けられるようにさえ思えた。葉子の口びるは暖かい桃の皮のような定子の頬《ほお》の膚ざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんす[#「めれんす」に傍点]の弾力のある軟《やわ》らかい触感を感じていた。葉子の膝《ひざ》はふうわり[#「ふうわり」に傍点]とした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼き付いた。目には、曲がり角《かど》の朽ちかかった黒板塀《くろいたべい》を透《とお》して、木部から稟《う》けた笑窪《えくぼ》のできる笑顔《えがお》が否応なしに吸い付いて来た。……乳房はくすむったかった。葉子は思わず片頬に微笑を浮かべてあたりをぬすむように見回した。とちょうどそこを通りかかった内儀《かみ》さんが、何かを前掛けの下に隠しながらじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の立ち姿を振り返ってまで見て通るのに気がついた。
 葉子は悪事でも働いていた人のように、急に笑顔を引っ込めてしまった。そしてこそ[#「こそ」に傍点]こそとそこを立ちのいて不忍《しのばず》の池《いけ》に出た。そして過去も未来も持たない人のように、池の端につくねん[#「つくねん」に傍点]と突っ立ったまま、池の中の蓮《はす》の実の一つに目を定めて、身動きもせずに小半時《こはんとき》立ち尽くしていた。

    八

 日の光がとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と隠れてしまって、往来の灯《ひ》ばかりが足もとのたよりとなるころ、葉子は熱病患者のように濁りきった頭をもてあまして、車に揺られるたびごとに眉《まゆ》を痛々しくしかめながら、釘店《くぎだな》に帰って来た。
 玄関にはいろいろの足駄《あしだ》や靴《くつ》がならべてあったが、流行を作ろう、少なくとも流行に遅れまいというはなやかな心を誇るらしい履物《はきもの》といっては一つも見当たらなかった。自分の草履《ぞうり》を始末しながら、葉子はすぐに二階の客間の模様を想像して、自分のために親戚《しんせき》や知人が
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