老女史の前にふい[#「ふい」に傍点]と投げた。
 「しかし愛子も貞世も妹でございます。現在わたしの妹でございます。口幅ったいと思《おぼ》し召《め》すかもしれませんが、この二人《ふたり》だけはわたしたとい米国におりましても立派に手塩にかけて御覧にいれますから、どうかお構いなさらずにくださいまし。それは赤坂《あかさか》学院も立派な学校には違いございますまい。現在私もおばさまのお世話であすこで育てていただいたのですから、悪くは申したくはございませんが、わたしのような人間が、皆様のお気に入らないとすれば……それは生まれつきもございましょうとも、ございましょうけれども、わたしを育て上げたのはあの学校でございますからねえ。何しろ現在いて見た上で、わたしこの二人をあすこに入れる気にはなれません。女というものをあの学校ではいったいなんと見ているのでござんすかしらん……」
 こういっているうちに葉子の心には火のような回想の憤怒が燃え上がった。葉子はその学校の寄宿舎で一個の中性動物として取り扱われたのを忘れる事ができない。やさしく、愛らしく、しおらしく、生まれたままの美しい好意と欲念との命ずるままに、おぼろげながら神というものを恋しかけた十二三歳ごろの葉子に、学校は祈祷《きとう》と、節欲と、殺情とを強制的にたたき込もうとした。十四の夏が秋に移ろうとしたころ、葉子はふと思い立って、美しい四寸幅ほどの角帯《かくおび》のようなものを絹糸で編みはじめた。藍《あい》の地《じ》に白で十字架と日月とをあしらった模様だった。物事にふけりやすい葉子は身も魂も打ち込んでその仕事に夢中になった。それを造り上げた上でどうして神様の御手に届けよう、というような事はもとより考えもせずに、早く造り上げてお喜ばせ申そうとのみあせって、しまいには夜の目もろくろく合わさなくなった。二週間に余る苦心の末にそれはあらかた[#「あらかた」に傍点]でき上がった。藍の地に簡単に白で模様を抜くだけならさしたる事でもないが、葉子は他人のまだしなかった試みを加えようとして、模様の周囲に藍と白とを組み合わせにした小さな笹縁《ささべり》のようなものを浮き上げて編み込んだり、ひどく伸び縮みがして模様が歪形《いびつ》にならないように、目立たないようにカタン糸を編み込んで見たりした。出来上がりが近づくと葉子は片時《かたとき》も編み針を休めてはいられなかった。ある時聖書の講義の講座でそっ[#「そっ」に傍点]と机の下で仕事を続けていると、運悪くも教師に見つけられた。教師はしきりにその用途を問いただしたが、恥じやすい乙女心《おとめごころ》にどうしてこの夢よりもはかない目論見《もくろみ》を白状する事ができよう。教師はその帯の色合いから推《お》して、それは男向きの品物に違いないと決めてしまった。そして葉子の心は早熟の恋を追うものだと断定した。そして恋というものを生来知らぬげな四十五六の醜い容貌《ようぼう》の舎監は、葉子を監禁同様にして置いて、暇さえあればその帯の持ち主たるべき人の名を迫り問うた。
 葉子はふと心の目を開いた。そしてその心はそれ以来峰から峰を飛んだ。十五の春には葉子はもう十も年上な立派な恋人を持っていた。葉子はその青年を思うさま翻弄《ほんろう》した。青年はまもなく自殺同様な死に方をした。一度生血の味をしめた虎《とら》の子のような渇欲が葉子の心を打ちのめすようになったのはそれからの事である。
 「古藤さん愛と貞とはあなたに願いますわ。だれがどんな事をいおうと、赤坂学院には入れないでくださいまし。私きのう田島《たじま》さんの塾《じゅく》に行って、田島さんにお会い申してよくお頼みして来ましたから、少し片付いたらはばかりさまですがあなた御自身で二人《ふたり》を連れていらしってください。愛さんも貞ちゃんもわかりましたろう。田島さんの塾にはいるとね、ねえさんと一緒にいた時のようなわけには行きませんよ……」
 「ねえさんてば……自分でばかり物をおっしゃって」
 といきなり[#「いきなり」に傍点]恨めしそうに、貞世は姉の膝《ひざ》をゆすりながらその言葉をさえぎった。
 「さっきからなんど書いたかわからないのに平気でほんとにひどいわ」
 一座の人々から妙な子だというふうにながめられているのにも頓着《とんじゃく》なく、貞世は姉のほうに向いて膝の上にしなだれかかりながら、姉の左手を長い袖《そで》の下に入れて、その手のひらに食指で仮名を一字ずつ書いて手のひらで拭《ふ》き消すようにした。葉子は黙って、書いては消し書いては消しする字をたどって見ると、
 「ネーサマハイイコダカラ『アメリカ』ニイツテハイケマセンヨヨヨヨ」
 と読まれた。葉子の胸はわれ知らず熱くなったが、しいて笑いにまぎらしながら、
 「まあ聞きわけのない子だこと、し
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