びす》を返して自分の部屋《へや》に戻《もど》ろうとした。が、その時はもうおそかった。洋服姿の田川夫妻がはっきり[#「はっきり」に傍点]と見分けがつくほどの距離に進みよっていたので、さすがに葉子もそれを見て見ぬふりでやり過ごす事は得《え》しなかった。涙をぬぐいきると、左手をあげて髪のほつれ[#「ほつれ」に傍点]をしなをしながらかき上げた時、二人はもうすぐそばに近寄っていた。
 「あらあなたでしたの。わたしどもは少し用事ができておくれましたが、こんなにおそくまで室外《そと》にいらしってお寒くはありませんでしたか。気分はいかがです」
 田川夫人は例の目下《めした》の者にいい慣れた言葉を器用に使いながら、はっきり[#「はっきり」に傍点]とこういってのぞき込むようにした。夫妻はすぐ葉子が何をしていたかを感づいたらしい。葉子はそれをひどく不快に思った。
 「急に寒い所に出ましたせいですかしら、なんだか頭《つむり》がぐらぐらいたしまして」
 「お嘔《もど》しなさった……それはいけない」
 田川|博士《はかせ》は夫人の言葉を聞くともっともというふうに、二三度こっくり[#「こっくり」に傍点]とうなずいた。厚外套《あつがいとう》にくるまった肥《ふと》った博士と、暖かそうなスコッチの裾長《すそなが》の服に、ロシア帽を眉《まゆ》ぎわまでかぶった夫人との前に立つと、やさ形の葉子は背たけこそ高いが、二人《ふたり》の娘ほどにながめられた。
 「どうだ一緒に少し歩いてみちゃ」
 と田川博士がいうと、夫人は、
 「ようございましょうよ、血液がよく循環して」と応じて葉子に散歩を促した。葉子はやむを得ず、かつかつと鳴る二人の靴《くつ》の音と、自分の上草履《うわぞうり》の音とをさびしく聞きながら、夫人のそばにひき添って甲板《かんぱん》の上を歩き始めた。ギーイときしみながら船が大きくかしぐのにうまく中心を取りながら歩こうとすると、また不快な気持ちが胸先にこみ上げて来るのを葉子は強く押し静めて事もなげに振る舞おうとした。
 博士は夫人との会話の途切れ目を捕えては、話を葉子に向けて慰め顔にあしらおうとしたが、いつでも夫人が葉子のすべき返事をひったくって物をいうので、せっかくの話は腰を折られた。葉子はしかし結句《けっく》それをいい事にして、自分の思いにふけりながら二人に続いた。しばらく歩きなれてみると、運動ができたためか、だんだん嘔《は》き気《け》は感ぜぬようになった。田川夫妻は自然に葉子を会話からのけものにして、二人の間で四方山《よもやま》のうわさ話を取りかわし始めた。不思議なほどに緊張した葉子の心は、それらの世間話にはいささかの興味も持ち得ないで、むしろその無意味に近い言葉の数々を、自分の瞑想《めいそう》を妨げる騒音のようにうるさく思っていた。と、ふと田川夫人が事務長と言ったのを小耳にはさんで、思わず針でも踏みつけたようにぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、黙想から取って返して聞き耳を立てた。自分でも驚くほど神経が騒ぎ立つのをどうする事もできなかった。
 「ずいぶんしたたか者らしゅうございますわね」
 そう夫人のいう声がした。
 「そうらしいね」
 博士《はかせ》の声には笑いがまじっていた。
 「賭博《ばくち》が大の上手《じょうず》ですって」
 「そうかねえ」
 事務長の話はそれぎりで絶えてしまった。葉子はなんとなく物足らなくなって、また何かいい出すだろうと心待ちにしていたが、その先を続ける様子がないので、心残りを覚えながら、また自分の心に帰って行った。
 しばらくすると夫人がまた事務長のうわさをし始めた。
 「事務長のそばにすわって食事をするのはどうもいやでなりませんの」
 「そんなら早月《さつき》さんに席を代わってもらったらいいでしょう」
 葉子は闇《やみ》の中で鋭く目をかがやかしながら夫人の様子をうかがった。
 「でも夫婦がテーブルにならぶって法はありませんわ……ねえ早月さん」
 こう戯談《じょうだん》らしく夫人はいって、ちょっと葉子のほうを振り向いて笑ったが、べつにその返事を待つというでもなく、始めて葉子の存在に気づきでもしたように、いろいろと身の上などを探りを入れるらしく聞き始めた。田川博士も時々親切らしい言葉を添えた。葉子は始めのうちこそつつましやかに事実にさほど遠くない返事をしていたものの、話がだんだん深入りして行くにつれて、田川夫人という人は上流の貴夫人だと自分でも思っているらしいに似合わない思いやりのない人だと思い出した。それはあり内《うち》の質問だったかもしれない。けれども葉子にはそう思えた。縁もゆかりもない人の前で思うままな侮辱を加えられるとむっ[#「むっ」に傍点]とせずにはいられなかった。知った所がなんにもならない話を、木村の事まで根はり葉はり問
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