。雪をたっぷり含んだ空だけが、その間とわずかに争って、南方には見られぬ暗い、燐《りん》のような、さびしい光を残していた。一種のテンポを取って高くなり低くなりする黒い波濤《はとう》のかなたには、さらに黒ずんだ波の穂が果てしもなく連なっていた。船は思ったより激しく動揺していた。赤いガラスをはめた檣燈《しょうとう》が空高く、右から左、左から右へと広い角度を取ってひらめいた。ひらめくたびに船が横かしぎになって、重い水の抵抗を受けながら進んで行くのが、葉子の足からからだに伝わって感ぜられた。
 葉子はふらふらと船にゆり上げゆり下げられながら、まんじりともせずに、黒い波の峰と波の谷とがかわるがわる目の前に現われるのを見つめていた。豊かな髪の毛をとおして寒さがしんしんと頭の中にしみこむのが、初めのうちは珍しくいい気持ちだったが、やがてしびれるような頭痛に変わって行った。……と急に、どこをどう潜んで来たとも知れない、いやなさびしさが盗風《とうふう》のように葉子を襲った。船に乗ってから春の草のように萌《も》え出した元気はぽっきり[#「ぽっきり」に傍点]と心《しん》を留められてしまった。こめかみがじんじんと痛み出して、泣きつかれのあとに似た不愉快な睡気《ねむけ》の中に、胸をついて嘔《は》き気《け》さえ催して来た。葉子はあわててあたりを見回したが、もうそこいらには散歩の人足《ひとあし》も絶えていた。けれども葉子は船室に帰る気力もなく、右手でしっかり[#「しっかり」に傍点]と額を押えて、手欄《てすり》に顔を伏せながら念じるように目をつぶって見たが、いいようのないさびしさはいや増すばかりだった。葉子はふと定子を懐妊していた時のはげしい悪阻《つわり》の苦痛を思い出した。それはおりから痛ましい回想だった。……定子……葉子はもうその笞《しもと》には堪えないというように頭を振って、気を紛らすために目を開いて、とめどなく動く波の戯れを見ようとしたが、一目見るやぐらぐらと眩暈《めまい》を感じて一たまりもなくまた突っ伏《ぷ》してしまった。深い悲しいため息が思わず出るのを留めようとしてもかいがなかった。「船に酔ったのだ」と思った時には、もうからだじゅうは不快な嘔感《おうかん》のためにわなわなと震えていた。
 「嘔《は》けばいい」
 そう思って手欄《てすり》から身を乗り出す瞬間、からだじゅうの力は腹から胸もとに集まって、背は思わずも激しく波打った。そのあとはもう夢のようだった。
 しばらくしてから葉子は力が抜けたようになって、ハンカチで口もとをぬぐいながら、たよりなくあたりを見回した。甲板《かんぱん》の上も波の上のように荒涼として人気《ひとけ》がなかった。明るく灯《ひ》の光のもれていた眼窓《めまど》は残らずカーテンでおおわれて暗くなっていた。右にも左にも人はいない。そう思った心のゆるみにつけ込んだのか、胸の苦しみはまた急によせ返して来た。葉子はもう一度|手欄《てすり》に乗り出してほろほろと熱い涙をこぼした。たとえば高くつるした大石を切って落としたように、過去というものが大きな一つの暗い悲しみとなって胸を打った。物心を覚えてから二十五の今日《こんにち》まで、張りつめ通した心の糸が、今こそ思い存分ゆるんだかと思われるその悲しい快《こころよ》さ。葉子はそのむなしい哀感にひたりながら、重ねた両手の上に額を乗せて手欄《てすり》によりかかったまま重い呼吸をしながらほろほろと泣き続けた。一時性貧血を起こした額は死人のように冷えきって、泣きながらも葉子はどうかするとふっ[#「ふっ」に傍点]と引き入れられるように、仮睡に陥ろうとした。そうしてははっ[#「はっ」に傍点]と何かに驚かされたように目を開くと、また底の知れぬ哀感がどこからともなく襲い入った。悲しい快さ。葉子は小学校に通《かよ》っている時分でも、泣きたい時には、人前では歯をくいしばっていて、人のいない所まで行って隠れて泣いた。涙を人に見せるというのは卑しい事にしか思えなかった。乞食《こじき》が哀れみを求めたり、老人が愚痴をいうのと同様に、葉子にはけがらわしく思えていた。しかしその夜に限っては、葉子はだれの前でも素直《すなお》な心で泣けるような気がした。だれかの前でさめざめと泣いてみたいような気分にさえなっていた。しみじみとあわれんでくれる人もありそうに思えた。そうした気持ちで葉子は小娘のようにたわいもなく泣きつづけていた。
 その時|甲板《かんぱん》のかなたから靴《くつ》の音が聞こえて来た。二人《ふたり》らしい足音だった。その瞬間まではだれの胸にでも抱きついてしみじみ泣けると思っていた葉子は、その音を聞きつけるとはっ[#「はっ」に傍点]というまもなく、張りつめたいつものような心になってしまって、大急ぎで涙を押しぬぐいながら、踵《く
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