いただしていったいどうしようという気なのだろう。老人でもあるならば、過ぎ去った昔を他人にくどくどと話して聞かせて、せめて慰むという事もあろう。「老人には過去を、若い人には未来を」という交際術の初歩すら心得ないがさつ[#「がさつ」に傍点]な人だ。自分ですらそっと手もつけないで済ませたい血なまぐさい身の上を……自分は老人ではない。葉子は田川夫人が意地《いじ》にかかってこんな悪戯《わるさ》をするのだと思うと激しい敵意から口びるをかんだ。
しかしその時田川博士が、サルンからもれて来る灯《ひ》の光で時計を見て、八時十分前だから部屋《へや》に帰ろうといい出したので、葉子はべつに何もいわずにしまった。三人が階子段《はしごだん》を降りかけた時、夫人は、葉子の気分にはいっこう気づかぬらしく、――もしそうでなければ気づきながらわざと気づかぬらしく振る舞って、
「事務長はあなたのお部屋にも遊びに見えますか」
と突拍子《とっぴょうし》もなくいきなり問いかけた。それを聞くと葉子の心は何という事なしに理不尽な怒りに捕えられた。得意な皮肉でも思い存分に浴びせかけてやろうかと思ったが、胸をさすりおろしてわざと落ち付いた調子で、
「いゝえちっとも[#「ちっとも」に傍点]お見えになりませんが……」
と空々《そらぞら》しく聞こえるように答えた。夫人はまだ葉子の心持ちには少しも気づかぬふうで、
「おやそう。わたしのほうへはたびたびいらして困りますのよ」
と小声でささやいた。「何を生意気な」葉子は前後《あとさき》なしにこう心のうちに叫んだが一言《ひとこと》も口には出さなかった。敵意――嫉妬《しっと》ともいい代えられそうな――敵意がその瞬間からすっかり[#「すっかり」に傍点]根を張った。その時夫人が振り返って葉子の顔を見たならば、思わず博士《はかせ》を楯《たて》に取って恐れながら身をかわさずにはいられなかったろう、――そんな場合には葉子はもとよりその瞬間に稲妻のようにすばしこく隔意のない顔を見せたには違いなかろうけれども。葉子は一言もいわずに黙礼したまま二人《ふたり》に別れて部屋《へや》に帰った。
室内はむっ[#「むっ」に傍点]とするほど暑かった。葉子は嘔《は》き気《け》はもう感じてはいなかったが、胸もとが妙にしめつけられるように苦しいので、急いでボアをかいやって床《ゆか》の上に捨てたまま、投げるように長椅子《ながいす》に倒れかかった。
それは不思議だった。葉子の神経は時には自分でも持て余すほど鋭く働いて、だれも気のつかないにおいがたまらないほど気になったり、人の着ている着物の色合いが見ていられないほど不調和で不愉快であったり、周囲の人が腑抜《ふぬ》けな木偶《でく》のように甲斐《かい》なく思われたり、静かに空を渡って行く雲の脚《あし》が瞑眩《めまい》がするほどめまぐるしく見えたりして、我慢にもじっ[#「じっ」に傍点]としていられない事は絶えずあったけれども、その夜のように鋭く神経のとがって来た事は覚えがなかった。神経の末梢《まっしょう》が、まるで大風にあったこずえのようにざわざわと音がするかとさえ思われた。葉子は足と足とをぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]とからみ合わせてそれに力をこめながら、右手の指先を四本そろえてその爪先《つまさき》を、水晶のように固い美しい歯で一思いに激しくかんで見たりした。悪寒《おかん》のような小刻みな身ぶるいが絶えず足のほうから頭へと波動のように伝わった。寒いためにそうなるのか、暑いためにそうなるのかよくわからなかった。そうしていらいらしながらトランクを開いたままで取り散らした部屋の中をぼんやり見やっていた。目はうるさくかすんでいた。ふと落ち散ったものの中に葉子は事務長の名刺があるのに目をつけて、身をかがめてそれを拾い上げた。それを拾い上げるとま二つに引き裂いてまた床になげた。それはあまりに手答えなく裂けてしまった。葉子はまた何かもっとうん[#「うん」に傍点]と手答えのあるものを尋ねるように熱して輝く目でまじまじとあたりを見回していた。と、カーテンを引き忘れていた。恥ずかしい様子を見られはしなかったかと思うと胸がどきん[#「どきん」に傍点]としていきなり立ち上がろうとした拍子《ひょうし》に、葉子は窓の外に人の顔を認めたように思った。田川博士のようでもあった。田川夫人のようでもあった。しかしそんなはずはない、二人はもう部屋に帰っている。事務長……
葉子は思わず裸体を見られた女のように固くなって立ちすくんだ。激しいおののきが襲って来た。そして何の思慮もなく床の上のボアを取って胸にあてがったが、次の瞬間にはトランクの中からショールを取り出してボアと一緒にそれをかかえて、逃げる人のように、あたふた[#「あたふた」に傍点]と部屋を出た。
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