な》から解き放されて、その力だけに働く事のできる生活がそこにはあるに違いない。才能と力量さえあれば女でも男の手を借りずに自分をまわりの人に認めさす事のできる生活がそこにはあるに違いない。女でも胸を張って存分呼吸のできる生活がそこにはあるに違いない。少なくとも交際社会のどこかではそんな生活が女に許されているに違いない。葉子はそんな事を空想するとむず[#「むず」に傍点]むずするほど快活になった。そんな心持ちで古藤の言葉などを考えてみると、まるで老人の繰り言のようにしか見えなかった。葉子は長い黙想の中から活々《いきいき》と立ち上がった。そして化粧をすますために鏡のほうに近づいた。
木村を良人《おっと》とするのになんの屈託《くったく》があろう。木村が自分の良人《おっと》であるのは、自分が木村の妻であるというほどに軽い事だ。木村という仮面……葉子は鏡を見ながらそう思ってほほえんだ。そして乱れかかる額ぎわの髪を、振り仰いで後ろになでつけたり、両方の鬢《びん》を器用にかき上げたりして、良工が細工物でもするように楽しみながら元気よく朝化粧を終えた。ぬれた手ぬぐいで、鏡に近づけた目のまわりの白粉《おしろい》をぬぐい終わると、口びるを開いて美しくそろった歯並みをながめ、両方の手の指を壺《つぼ》の口のように一所《ひとところ》に集めて爪《つめ》の掃除《そうじ》が行き届いているか確かめた。見返ると船に乗る時着て来た単衣《ひとえ》のじみな着物は、世捨て人のようにだらり[#「だらり」に傍点]と寂しく部屋《へや》のすみの帽子かけにかかったままになっていた。葉子は派手《はで》な袷《あわせ》をトランクの中から取り出して寝衣《ねまき》と着かえながら、それに目をやると、肩にしっかり[#「しっかり」に傍点]としがみ付いて、泣きおめいた彼《か》の狂気じみた若者の事を思った。と、すぐそのそばから若者を小わきにかかえた事務長の姿が思い出された。小雨の中を、外套《がいとう》も着ずに、小荷物でも運んで行ったように若者を桟橋の上におろして、ちょっと五十川《いそがわ》女史に挨拶《あいさつ》して船から投げた綱にすがるや否や、静かに岸から離れてゆく船の甲板の上に軽々と上がって来たその姿が、葉子の心をくすぐるように楽しませて思い出された。
夜はいつのまにか明け離れていた。眼窓《めまど》の外は元のままに灰色はしているが、活々《いきいき》とした光が添い加わって、甲板の上を毎朝規則正しく散歩する白髪の米人とその娘との足音がこつ[#「こつ」に傍点]こつ快活らしく聞こえていた。化粧をすました葉子は長椅子《ながいす》にゆっくり腰をかけて、両足をまっすぐにそろえて長々と延ばしたまま、うっとり[#「うっとり」に傍点]と思うともなく事務長の事を思っていた。
その時突然ノックをしてボーイがコーヒーを持ってはいって来た。葉子は何か悪い所でも見つけられたようにちょっとぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、延ばしていた足の膝《ひざ》を立てた。ボーイはいつものように薄笑いをしてちょっと頭を下げて銀色の盆を畳椅子《たたみいす》の上においた。そしてきょうも食事はやはり船室に運ぼうかと尋ねた。
「今晩からは食堂にしてください」
葉子はうれしい事でもいって聞かせるようにこういった。ボーイはまじめくさって「はい」といったが、ちらりと葉子を上目で見て、急ぐように部屋《へや》を出た。葉子はボーイが部屋《へや》を出てどんなふうをしているかがはっきり[#「はっきり」に傍点]見えるようだった。ボーイはすぐににこ[#「にこ」に傍点]にこと不思議な笑いをもらしながらケーク・ウォークの足つきで食堂のほうに帰って行ったに違いない。ほどもなく、
「え、いよいよ御来迎《ごらいごう》?」
「来たね」
というような野卑な言葉が、ボーイらしい軽薄な調子で声高《こわだか》に取りかわされるのを葉子は聞いた。
葉子はそんな事を耳にしながらやはり事務長の事を思っていた。「三日も食堂に出ないで閉じこもっているのに、なんという事務長だろう、一ぺんも見舞いに来ないとはあんまりひどい」こんな事を思っていた。そしてその一方では縁もゆかりもない馬のようにただ頑丈《がんじょう》な一人《ひとり》の男がなんでこう思い出されるのだろうと思っていた。
葉子は軽いため息をついて何げなく立ち上がった。そしてまた長椅子《ながいす》に腰かける時には棚《たな》の上から事務長の名刺を持って来てながめていた。「日本郵船会社絵島丸事務長勲六等倉地三吉」と明朝《ミンチョウ》ではっきり[#「はっきり」に傍点]書いてある。葉子は片手でコーヒーをすすりながら、名刺を裏返してその裏をながめた。そしてまっ白なその裏に何か長い文句でも書いであるかのように、二重になる豊かな顎《あご》を襟《えり》
前へ
次へ
全85ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング