の間に落として、少し眉《まゆ》をひそめながら、長い間まじろぎもせず見つめていた。

    一二

 その日の夕方、葉子は船に来てから始めて食堂に出た。着物は思いきって地味《じみ》なくすんだのを選んだけれども、顔だけは存分に若くつくっていた。二十《はたち》を越すや越さずに見える、目の大きな、沈んだ表情の彼女の襟の藍鼠《あいねずみ》は、なんとなく見る人の心を痛くさせた。細長い食卓の一端に、カップ・ボードを後ろにして座を占めた事務長の右手には田川夫人がいて、その向かいが田川博士、葉子の席は博士のすぐ隣に取ってあった。そのほかの船客も大概はすでに卓に向かっていた。葉子の足音が聞こえると、いち早く目くばせをし合ったのはボーイ仲間で、その次にひどく落ち付かぬ様子をし出したのは事務長と向かい合って食卓の他の一端にいた鬚《ひげ》の白いアメリカ人の船長であった。あわてて席を立って、右手にナプキンを下げながら、自分の前を葉子に通らせて、顔をまっ赤《か》にして座に返った。葉子はしとやかに人々の物数奇《ものずき》らしい視線を受け流しながら、ぐるっ[#「ぐるっ」に傍点]と食卓を回って自分の席まで行くと、田川|博士《はかせ》はぬすむように夫人の顔をちょっとうかがっておいて、肥《ふと》ったからだをよけるようにして葉子を自分の隣にすわらせた。
 すわりずまいをただしている間、たくさんの注視の中にも、葉子は田川夫人の冷たいひとみの光を浴びているのを心地《ここち》悪いほどに感じた。やがてきちん[#「きちん」に傍点]とつつましく正面を向いて腰かけて、ナプキンを取り上げながら、まず第一に田川夫人のほうに目をやってそっと挨拶《あいさつ》すると、今までの角々《かどかど》しい目にもさすがに申しわけほどの笑《え》みを見せて、夫人が何かいおうとした瞬間、その時までぎごちなく話を途切らしていた田川博士も事務長のほうを向いて何かいおうとしたところであったので、両方の言葉が気まずくぶつかりあって、夫婦は思わず同時に顔を見合わせた。一座の人々も、日本人といわず外国人といわず、葉子に集めていたひとみを田川夫妻のほうに向けた。「失礼」といってひかえた博士に夫人はちょっと頭を下げておいて、みんなに聞こえるほどはっきり澄んだ声で、
 「とんと食堂においでがなかったので、お案じ申しましたの、船にはお困りですか」
 といった。さすがに世慣れて才走ったその言葉は、人の上に立ちつけた重みを見せた。葉子はにこやかに黙ってうなずきながら、位を一段落として会釈するのをそう不快には思わぬくらいだった。二人《ふたり》の間の挨拶《あいさつ》はそれなりで途切れてしまったので、田川|博士《はかせ》はおもむろに事務長に向かってし続けていた話の糸目をつなごうとした。
 「それから……その……」
 しかし話の糸口は思うように出て来なかった。事もなげに落ち付いた様子に見える博士の心の中に、軽い混乱が起こっているのを、葉子はすぐ見て取った。思いどおりに一座の気分を動揺させる事ができるという自信が裏書きされたように葉子は思ってそっと満足を感じていた。そしてボーイ長のさしずでボーイらが手器用《てぎよう》に運んで来たポタージュをすすりながら、田川博士のほうの話に耳を立てた。
 葉子が食堂に現われて自分の視界にはいってくると、臆面《おくめん》もなくじっ[#「じっ」に傍点]と目を定めてその顔を見やった後に、無頓着《むとんじゃく》にスプーンを動かしながら、時々食卓の客を見回して気を配っていた事務長は、下くちびるを返して鬚《ひげ》の先を吸いながら、塩さびのした太い声で、
 「それからモンロー主義の本体は」
 と話の糸目を引っぱり出しておいて、まともに博士を打ち見やった。博士は少し面伏《おもぶ》せな様子で、
 「そう、その話でしたな。モンロー主義もその主張は初めのうちは、北米の独立諸州に対してヨーロッパの干渉を拒むというだけのものであったのです。ところがその政策の内容は年と共にだんだん変わっている。モンローの宣言は立派に文字になって残っているけれども、法律というわけではなし、文章も融通《ゆうずう》がきくようにできているので、取りようによっては、どうにでも伸縮する事ができるのです。マッキンレー氏などはずいぶん極端にその意味を拡張しているらしい。もっともこれにはクリーブランドという人の先例もあるし、マッキンレー氏の下にはもう一人《ひとり》有力な黒幕があるはずだ。どうです斎藤《さいとう》君」
 と二三人おいた斜向《はすか》いの若い男を顧みた。斎藤と呼ばれた、ワシントン公使館赴任の外交官補は、まっ赤《か》になって、今まで葉子に向けていた目を大急ぎで博士のほうにそらして見たが、質問の要領をはっきり捕えそこねて、さらに赤くなって術ない身ぶりをした。こ
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