《たんねん》に細く破り取って、手筋は立派ながらまだどこかたどたどしい手跡でペンで走り書きした文句を読み下して見た。
[#ここから引用文、本文より一字下げ]
「あなたはおさんどん[#「おさんどん」に傍点]になるという事を想像してみる事ができますか。おさんどん[#「おさんどん」に傍点]という仕事が女にあるという事を想像してみる事ができますか。僕はあなたを見る時はいつでもそう思って不思議な心持ちになってしまいます。いったい世の中には人を使って、人から使われるという事を全くしないでいいという人があるものでしょうか。そんな事ができうるものでしょうか。僕はそれをあなたに考えていただきたいのです。
あなたは奇態な感じを与える人です。あなたのなさる事はどんな危険な事でも危険らしく見えません。行きづまった末にはこうという覚悟がちゃん[#「ちゃん」に傍点]とできているように思われるからでしょうか。
僕があなたに始めてお目にかかったのは、この夏あなたが木村君と一緒に八幡《やわた》に避暑をしておられた時ですから、あなたについては僕は、なんにも知らないといっていいくらいです。僕は第一一般的に女というものについてなんにも知りません。しかし少しでもあなたを知っただけの心持ちからいうと、女の人というものは僕に取っては不思議な謎《なぞ》です。あなたはどこまで行ったら行きづまると思っているんです。あなたはすでに木村君で行きづまっている人なんだと僕には思われるのです。結婚を承諾した以上はその良人《おっと》に行きづまるのが女の人の当然な道ではないでしょうか。木村君で行きづまってください。木村君にあなたを全部与えてください。木村君の親友としてこれが僕の願いです。
全体同じ年齢でありながら、あなたからは僕などは子供に見えるのでしょうから、僕のいう事などは頓着《とんじゃく》なさらないかと思いますが、子供にも一つの直覚はあります。そして子供はきっぱり[#「きっぱり」に傍点]した物の姿が見たいのです。あなたが木村君の妻になると約束した以上は、僕のいう事にも権威があるはずだと思います。
僕はそうはいいながら一面にはあなたがうらやましいようにも、憎いようにも、かわいそうなようにも思います。あなたのなさる事が僕の理性を裏切って奇怪な同情を喚《よ》び起こすようにも思います。僕は心の底に起こるこんな働きをもしいて押しつぶして理屈一方に固まろうとは思いません。それほど僕は道学者ではないつもりです。それだからといって、今のままのあなたでは、僕にはあなたを敬親する気は起こりません。木村君の妻としてあなたを敬親したいから、僕はあえてこんな事を書きました。そういう時が来るようにしてほしいのです。
木村君の事を――あなたを熱愛してあなたのみに希望をかけている木村君の事を考えると僕はこれだけの事を書かずにはいられなくなります。
古藤義一[#行末より三字上げ]
木村葉子様」
[#引用文ここまで]
それは葉子に取ってはほんとうの子供っぽい言葉としか響かなかった。しかし古藤は妙に葉子には苦手《にがて》だった。今も古藤の手紙を読んで見ると、ばかばかしい事がいわれているとは思いながらも、いちばん大事な急所を偶然のようにしっかり[#「しっかり」に傍点]捕えているようにも感じられた。ほんとうにこんな事をしていると、子供と見くびっている古藤にもあわれまれるはめ[#「はめ」に傍点]になりそうな気がしてならなかった。葉子はなんという事なく悒鬱《ゆううつ》になって古藤の手紙を巻きおさめもせず膝《ひざ》の上に置いたまま目をすえて、じっ[#「じっ」に傍点]と考えるともなく考えた。
それにしても、新しい教育を受け、新しい思想を好み、世事にうといだけに、世の中の習俗からも飛び離れて自由でありげに見える古藤さえが、葉子が今立っている崕《がけ》のきわから先には、葉子が足を踏み出すのを憎み恐れる様子を明らかに見せているのだ。結婚というものが一人《ひとり》の女に取って、どれほど生活という実際問題と結び付き、女がどれほどその束縛の下に悩んでいるかを考えてみる事さえしようとはしないのだ。そう葉子は思ってもみた。
これから行こうとする米国という土地の生活も葉子はひとりでにいろいろと想像しないではいられなかった。米国の人たちはどんなふうに自分を迎え入れようとはするだろう。とにかく今までの狭い悩ましい過去と縁を切って、何の関《かかわ》りもない社会の中に乗り込むのはおもしろい。和服よりもはるかに洋服に適した葉子は、そこの交際社会でも風俗では米国人を笑わせない事ができる。歓楽でも哀傷でもしっくり[#「しっくり」に傍点]と実生活の中に織り込まれているような生活がそこにはあるに違いない。女のチャームというものが、習慣的な絆《きず
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