めてばかりいた。そんな痛々しい様子がその時まざまざと葉子の目の前にちらついたのだ。一人《ひとり》ぽっちで遠い旅に鹿島立《かしまだ》って行く自分というものがあじきなくも思いやられた。そんな心持ちになると忙《せわ》しい間にも葉子はふと田川のほうを振り向いて見た。中学校の制服を着た二人の少年と、髪をお下げにして、帯をおはさみ[#「おはさみ」に傍点]にしめた少女とが、田川と夫人との間にからまってちょうど告別をしているところだった。付き添いの守《も》りの女が少女を抱き上げて、田川夫人の口びるをその額に受けさしていた。葉子はそんな場面を見せつけられると、他人事《ひとごと》ながら自分が皮肉でむちうたれるように思った。竜《りゅう》をも化して牝豚《めぶた》にするのは母となる事だ。今の今まで焼くように定子の事を思っていた葉子は、田川夫人に対してすっかり反対の事を考えた。葉子はそのいまいましい光景から目を移して舷梯《げんてい》のほうを見た。しかしそこにはもう乳母の姿も古藤の影もなかった。
 たちまち船首のほうからけたたましい銅鑼《どら》の音が響き始めた。船の上下は最後のどよめきに揺らぐように見えた。長い綱を引きずって行く水夫が帽子の落ちそうになるのを右の手でささえながら、あたりの空気に激しい動揺を起こすほどの勢いで急いで葉子のかたわらを通りぬけた。見送り人は一斉《いっせい》に帽子を脱いで舷梯のほうに集まって行った。その際になって五十川女史ははた[#「はた」に傍点]と葉子の事を思い出したらしく、田川夫人に何かいっておいて葉子のいる所にやって来た。
 「いよいよお別れになったが、いつぞやお話しした田川の奥さんにおひきあわせしようからちょっと」
 葉子は五十川女史の親切ぶりの犠牲になるのを承知しつつ、一種の好奇心にひかされて、そのあとについて行こうとした。葉子に初めて物をいう田川の態度も見てやりたかった。その時、
 「葉子さん」
 と突然いって、葉子の肩に手をかけたものがあった。振り返るとビールの酔いのにおいがむせかえるように葉子の鼻を打って、目の心《しん》まで紅《あか》くなった知らない若者の顔が、近々と鼻先にあらわれていた。はっ[#「はっ」に傍点]と身を引く暇もなく、葉子の肩はびしょぬれになった酔いどれの腕でがっしりと巻かれていた。
 「葉子さん、覚えていますかわたしを……あなたはわたしの命なんだ。命なんです」
 といううちにも、その目からはほろほろと煮えるような涙が流れて、まだうら若いなめらかな頬《ほお》を伝った。膝《ひざ》から下がふらつくのを葉子にすがって危うくささえながら、
 「結婚をなさるんですか……おめでとう……おめでとう……だがあなたが日本にいなくなると思うと……いたたまれないほど心細いんだ……わたしは……」
 もう声さえ続かなかった。そして深々と息気《いき》をひいてしゃくり上げながら、葉子の肩に顔を伏せてさめざめと男泣きに泣き出した。
 この不意な出来事はさすがに葉子を驚かしもし、きまりも悪くさせた。だれだとも、いつどこであったとも思い出す由がない。木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、82−8]《きべこきょう》と別れてから、何という事なしに捨てばちな心地《ここち》になって、だれかれの差別もなく近寄って来る男たちに対して勝手気ままを振る舞ったその間に、偶然に出あって偶然に別れた人の中の一人《ひとり》でもあろうか。浅い心でもてあそんで行った心の中にこの男の心もあったであろうか。とにかく葉子には少しも思い当たる節《ふし》がなかった。葉子はその男から離れたい一心に、手に持った手鞄《てかばん》と包み物とを甲板の上にほうりなげて、若者の手をやさしく振りほどこうとして見たが無益だった。親類や朋輩《ほうばい》たちの事あれがしな目が等しく葉子に注がれているのを葉子は痛いほど身に感じていた。と同時に、男の涙が薄い単衣《ひとえ》の目を透《とお》して、葉子の膚にしみこんで来るのを感じた。乱れたつやつやしい髪のにおいもつい鼻の先で葉子の心を動かそうとした。恥も外聞も忘れ果てて、大空の下ですすり泣く男の姿を見ていると、そこにはかすかな誇りのような気持ちがわいて来た。不思議な憎しみといとしさがこんがらかって葉子の心の中で渦巻《うずま》いた。葉子は、
 「さ、もう放してくださいまし、船が出ますから」
 ときびしくいって置いて、かんで含めるように、
 「だれでも生きてる間は心細く暮らすんですのよ」
 とその耳もとにささやいて見た。若者はよくわかったというふうに深々とうなずいた。しかし葉子を抱く手はきびしく震えこそすれ、ゆるみそうな様子は少しも見えなかった。
 物々しい銅鑼《どら》の響きは左舷から右舷に回って、また船首のほうに聞こえて行こうとしていた。船員
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