も乗客も申し合わしたように葉子のほうを見守っていた。先刻から手持ちぶさたそうにただ立って成り行きを見ていた五十川女史は思いきって近寄って来て、若者を葉子から引き離そうとしたが、若者はむずかる子供のように地だんだ[#「だんだ」に傍点]を踏んでますます葉子に寄り添うばかりだった。船首のほうに群がって仕事をしながら、この様子を見守っていた水夫たちは一斉《いっせい》に高く笑い声を立てた。そしてその中の一人はわざと船じゅうに聞こえ渡るようなくさめをした。抜錨《ばつびょう》の時刻は一秒一秒に逼《せま》っていた。物笑いの的《まと》になっている、そう思うと葉子の心はいとしさから激しいいとわしさに変わって行った。
 「さ、お放しください、さ」
 ときわめて冷酷にいって、葉子は助けを求めるようにあたりを見回した。
 田川博士のそばにいて何か話をしていた一人の大兵《たいひょう》な船員がいたが、葉子の当惑しきった様子を見ると、いきなり大股《おおまた》に近づいて来て、
 「どれ、わたしが下までお連れしましょう」
 というや否や、葉子の返事も待たずに若者を事もなく抱きすくめた。若者はこの乱暴にかっ[#「かっ」に傍点]となって怒り狂ったが、その船員は小さな荷物でも扱うように、若者の胴のあたりを右わきにかいこんで、やすやすと舷梯《げんてい》を降りて行った。五十川女史はあたふた[#「あたふた」に傍点]と葉子に挨拶《あいさつ》もせずにそのあとに続いた。しばらくすると若者は桟橋の群集の間に船員の手からおろされた。
 けたたましい汽笛が突然鳴りはためいた。田川夫妻の見送り人たちはこの声で活を入れられたようになって、どよめき渡りながら、田川夫妻の万歳をもう一度繰り返した。若者を桟橋に連れて行った、かの巨大な船員は、大きな体躯《たいく》を猿《ましら》のように軽くもてあつかって、音も立てずに桟橋からずしずしと離れて行く船の上にただ一条の綱を伝って上がって来た。人々はまたその早業《はやわざ》に驚いて目を見張った。
 葉子の目は怒気を含んで手欄《てすり》からしばらくの間かの若者を見据えていた。若者は狂気のように両手を広げて船に駆け寄ろうとするのを、近所に居合わせた三四人の人があわてて引き留める、それをまたすり抜けようとして組み伏せられてしまった。若者は組み伏せられたまま左の腕を口にあてがって思いきりかみしばりながら泣き沈んだ。その牛のうめき声のような泣き声が気疎《けうと》く船の上まで聞こえて来た。見送り人は思わず鳴りを静めてこの狂暴な若者に目を注いだ。葉子も葉子で、姿も隠さず手欄《てすり》に片手をかけたまま突っ立って、同じくこの若者を見据えていた。といって葉子はその若者の上ばかりを思っているのではなかった。自分でも不思議だと思うような、うつろな余裕がそこにはあった。古藤が若者のほうには目もくれずにじっ[#「じっ」に傍点]と足もとを見つめているのにも気が付いていた。死んだ姉の晴れ着を借り着していい心地《ここち》になっているような叔母《おば》の姿も目に映っていた。船のほうに後ろを向けて(おそらくそれは悲しみからばかりではなかったろう。その若者の挙動が老いた心をひしいだに違いない)手ぬぐいをしっかり[#「しっかり」に傍点]と両眼にあてている乳母《うば》も見のがしてはいなかった。
 いつのまに動いたともなく船は桟橋から遠ざかっていた。人の群れが黒蟻《くろあり》のように集まったそこの光景は、葉子の目の前にひらけて行く大きな港の景色の中景になるまでに小さくなって行った。葉子の目は葉子自身にも疑われるような事をしていた。その目は小さくなった人影の中から乳母の姿を探り出そうとせず、一種のなつかしみを持つ横浜の市街を見納めにながめようとせず、凝然として小さくうずくまる若者ののらしい黒点を見つめていた。若者の叫ぶ声が、桟橋の上で打ち振るハンケチの時々ぎら[#「ぎら」に傍点]ぎらと光るごとに、葉子の頭の上に張り渡された雨よけの帆布《ほぬの》の端《はし》から余滴《したたり》がぽつり[#「ぽつり」に傍点]ぽつりと葉子の顔を打つたびに、断続して聞こえて来るように思われた。
 「葉子さん、あなたは私を見殺しにするんですか……見殺しにするん……」

    一〇

 始めての旅客も物慣れた旅客も、抜錨《ばつびょう》したばかりの船の甲板に立っては、落ち付いた心でいる事ができないようだった。跡始末のために忙《せわ》しく右往左往する船員の邪魔になりながら、何がなしの興奮にじっ[#「じっ」に傍点]としてはいられないような顔つきをして、乗客は一人《ひとり》残らず甲板に集まって、今まで自分たちがそば近く見ていた桟橋のほうに目を向けていた。葉子もその様子だけでいうと、他の乗客と同じように見えた。葉子は他の乗客と同じように
前へ 次へ
全85ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング