船員たちが、ぬれた傘《かさ》を光らしながら駆けこんで来た。その騒ぎの間に、一種|生臭《なまぐさ》いような暖かい蒸気が甲板の人を取り巻いて、フォクスルのほうで、今までやかましく荷物をまき上げていた扛重機《クレーン》の音が突然やむと、かーんとするほど人々の耳はかえって遠くなった。隔たった所から互いに呼びかわす水夫らの高い声は、この船にどんな大危険でも起こったかと思わせるような不安をまき散らした。親しい間の人たちは別れの切《せつ》なさに心がわくわくしてろくに口もきかず、義理一ぺんの見送り人は、ややともするとまわりに気が取られて見送るべき人を見失う。そんなあわただしい抜錨《ばつびょう》の間ぎわになった。葉子の前にも、急にいろいろな人が寄り集まって来て、思い思いに別れの言葉を残して船を降り始めた。葉子はこんな混雑な間にも田川のひとみが時々自分に向けられるのを意識して、そのひとみを驚かすようななまめいたポーズや、たよりなげな表情を見せるのを忘れないで、言葉少なにそれらの人に挨拶《あいさつ》した。叔父《おじ》と叔母《おば》とは墓の穴まで無事に棺を運んだ人夫のように、通り一ぺんの事をいうと、預かり物を葉子に渡して、手の塵《ちり》をはたかんばかりにすげなく、まっ先に舷梯《げんてい》を降りて行った。葉子はちらっ[#「ちらっ」に傍点]と叔母の後ろ姿を見送って驚いた。今の今までどことて似通う所の見えなかった叔母も、その姉なる葉子の母の着物を帯まで借りて着込んでいるのを見ると、はっ[#「はっ」に傍点]と思うほどその姉にそっくり[#「そっくり」に傍点]だった。葉子はなんという事なしにいやな心持ちがした。そしてこんな緊張した場合にこんなちょっとした事にまでこだわる自分を妙に思った。そう思う間《ま》もあらせず、今度は親類の人たちが五六人ずつ、口々に小やかましく何かいって、あわれむような妬sねた》むような目つきを投げ与えながら、幻影のように葉子の目と記憶とから消えて行った。丸髷《まるまげ》に結ったり教師らしい地味《じみ》な束髪に上げたりしている四人の学校友だちも、今は葉子とはかけ隔たった境界《きょうがい》の言葉づかいをして、昔葉子に誓った言葉などは忘れてしまった裏切り者の空々《そらぞら》しい涙を見せたりして、雨にぬらすまいと袂《たもと》を大事にかばいながら、傘にかくれてこれも舷梯《げんてい》を消えて行ってしまった。最後に物おじする様子の乳母《うば》が葉子の前に来て腰をかがめた。葉子はとうとう行き詰まる所まで来たような思いをしながら、振り返って古藤を見ると、古藤は依然として手欄《てすり》に身を寄せたまま、気抜けでもしたように、目を据えて自分の二三|間《げん》先をぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]ながめていた。
 「義一さん、船の出るのも間《ま》が無さそうですからどうか此女《これ》……わたしの乳母ですの……の手を引いておろしてやってくださいましな。すべりでもすると怖《こお》うござんすから」
 と葉子にいわれて古藤は始めてわれに返った。そしてひとり言《ごと》のように、
 「この船で僕もアメリカに行って見たいなあ」
 とのんきな事をいった。
 「どうか桟橋まで見てやってくださいましね。あなたもそのうちぜひいらっしゃいましな……義一さんそれではこれでお別れ。ほんとうに、ほんとうに」
 といいながら葉子はなんとなく親しみをいちばん深くこの青年に感じて、大きな目で古藤をじっと見た。古藤も今さらのように葉子をじっと見た。
 「お礼の申しようもありません。この上のお願いです。どうぞ妹たちを見てやってくださいまし。あんな人たちにはどうしたって頼んではおけませんから。……さようなら」
 「さようなら」
 古藤は鸚鵡返《おうむがえ》しに没義道《もぎどう》にこれだけいって、ふいと手欄《てすり》を離れて、麦稈《むぎわら》帽子を目深《まぶか》にかぶりながら、乳母に付き添った。
 葉子は階子《はしご》の上がり口まで行って二人に傘《かさ》をかざしてやって、一段一段遠ざかって行く二人《ふたり》の姿を見送った。東京で別れを告げた愛子や貞世の姿が、雨にぬれた傘のへんを幻影となって見えたり隠れたりしたように思った。葉子は不思議な心の執着から定子にはとうとう会わないでしまった。愛子と貞世とはぜひ見送りがしたいというのを、葉子はしかりつけるようにいってとめてしまった。葉子が人力車で家を出ようとすると、なんの気なしに愛子が前髪から抜いて鬢《びん》をかこうとした櫛《くし》が、もろくもぽきり[#「ぽきり」に傍点]と折れた。それを見ると愛子は堪《こら》え堪えていた涙の堰《せき》を切って声を立てて泣き出した。貞世は初めから腹でも立てたように、燃えるような目からとめどなく涙を流して、じっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見つ
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