かさ》にかかりながら、それでいて良人から独立する事の到底できない、いわば心《しん》の弱い強がり家《や》ではないかしらんというのだった。葉子は今後ろ向きになった田川夫人の肩の様子を一目見たばかりで、辞書でも繰り当てたように、自分の想像の裏書きをされたのを胸の中でほほえまずにはいられなかった。
 「なんだか話が混雑したようだけれども、それだけいって置いてください」
 ふと葉子は幻想《レェリー》から破れて、古藤のいうこれだけの言葉を捕えた。そして今まで古藤の口から出た伝言の文句はたいてい聞きもらしていたくせに、空々《そらぞら》しげにもなくしんみり[#「しんみり」に傍点]とした様子で、
 「確かに……けれどもあなたあとから手紙ででも詳しく書いてやってくださいましね。間違いでもしているとたいへんですから」
 と古藤をのぞき込むようにしていった。古藤は思わず笑いをもらしながら、「間違うとたいへんですから」という言葉を、時おり葉子の口から聞くチャームに満ちた子供らしい言葉の一つとでも思っているらしかった。そして、
 「何、間違ったって大事はないけれども……だが手紙は書いて、あなたの寝床《バース》の枕《まくら》の下に置いときましたから、部屋《へや》に行ったらどこにでもしまっておいてください。それから、それと一緒にもう一つ……」
 といいかけたが、
 「何しろ忘れずに枕の下を見てください」
 この時突然「田川法学|博士《はかせ》万歳」という大きな声が、桟橋《さんばし》からデッキまでどよみ渡って聞こえて来た。葉子と古藤とは話の腰を折られて互いに不快な顔をしながら、手欄《てすり》から下のほうをのぞいて見ると、すぐ目の下に、そのころ人の少し集まる所にはどこにでも顔を出す轟《とどろき》という剣舞の師匠だか撃剣の師匠だかする頑丈《がんじょう》な男が、大きな五つ紋の黒羽織《くろばおり》に白っぽい鰹魚縞《かつおじま》の袴《はかま》をはいて、桟橋の板を朴《ほお》の木下駄《きげた》で踏み鳴らしながら、ここを先途《せんど》とわめいていた。その声に応じて、デッキまではのぼって来ない壮士|体《てい》の政客や某私立政治学校の生徒が一斉《いっせい》に万歳を繰り返した。デッキの上の外国船客は物珍しさにいち早く、葉子がよりかかっている手欄《てすり》のほうに押し寄せて来たので、葉子は古藤を促して、急いで手欄の折れ曲がったかどに身を引いた。田川夫婦もほほえみながら、サルンから挨拶《あいさつ》のために近づいて来た。葉子はそれを見ると、古藤のそばに寄り添ったまま、左手をやさしく上げて、鬢《びん》のほつれをかき上げながら、頭を心持ち左にかしげてじっ[#「じっ」に傍点]と田川の目を見やった。田川は桟橋のほうに気を取られて急ぎ足で手欄《てすり》のほうに歩いていたが、突然見えぬ力にぐっ[#「ぐっ」に傍点]と引きつけられたように、葉子のほうに振り向いた。
 田川夫人も思わず良人《おっと》の向くほうに頭を向けた。田川の威厳に乏しい目にも鋭い光がきらめいては消え、さらにきらめいて消えたのを見すまして、葉子は始めて田川夫人の目を迎えた。額の狭い、顎《あご》の固い夫人の顔は、軽蔑《けいべつ》と猜疑《さいぎ》の色をみなぎらして葉子に向かった。葉子は、名前だけをかねてから聞き知って慕っていた人を、今目の前に見たように、うやうやしさと親しみとの交じり合った表情でこれに応じた。そしてすぐそのばから、夫人の前にも頓着《とんじゃく》なく、誘惑のひとみを凝らしてその良人の横顔をじっ[#「じっ」に傍点]と見やるのだった。
 「田川法学|博士《はかせ》夫人万歳」「万歳」「万歳」
 田川その人に対してよりもさらに声高《こわだか》な大歓呼が、桟橋にいて傘《かさ》を振り帽子を動かす人々の群れから起こった。田川夫人は忙《せわ》しく葉子から目を移して、群集に取っときの笑顔《えがお》を見せながら、レースで笹縁《ささべり》を取ったハンケチを振らねばならなかった。田川のすぐそばに立って、胸に何か赤い花をさして型のいいフロック・コートを着て、ほほえんでいた風流な若紳士は、桟橋の歓呼を引き取って、田川夫人の面前で帽子を高くあげて万歳を叫んだ。デッキの上はまた一しきりどよめき渡った。
 やがて甲板の上は、こんな騒ぎのほかになんとなく忙《せわ》しくなって来た。事務員や水夫たちが、物せわしそうに人中を縫うてあちこちする間に、手を取り合わんばかりに近よって別れを惜しむ人々の群れがここにもかしこにも見え始めた。サルン・デッキから見ると、三等客の見送り人がボーイ長にせき立てられて、続々|舷門《げんもん》から降り始めた。それと入れ代わりに、帽子、上着、ズボン、ネクタイ、靴《くつ》などの調和の少しも取れていないくせに、むやみに気取った洋装をした非番の下級
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