、夜風にほてった顔を冷やさせて、貞世を抱いたまま黙ってすわり続けていた。間遠《まどお》に日本橋を渡る鉄道馬車の音が聞こえるばかりで、釘店《くぎだな》の人通りは寂しいほどまばらになっていた。
 姿は見せずに、どこかのすみで愛子がまだ泣き続けて鼻をかんだりする音が聞こえていた。
 「愛さん……貞《さあ》ちゃんが寝ましたからね、ちょっとお床を敷いてやってちょうだいな」
 われながら驚くほどやさしく愛子に口をきく自分を葉子は見いだした。性《しょう》が合わないというのか、気が合わないというのか、ふだん愛子の顔さえ見れば葉子の気分はくずされてしまうのだった。愛子が何事につけても猫《ねこ》のように従順で少しも情というものを見せないのがことさら憎かった。しかしその夜だけは不思議にもやさしい口をきいた。葉子はそれを意外に思った。愛子がいつものように素直《すなお》に立ち上がって、洟《はな》をすすりながら黙って床を取っている間に、葉子はおりおり往来のほうから振り返って、愛子のしとやかな足音や、綿を薄く入れた夏ぶとんの畳に触れるささやかな音を見入りでもするようにそのほうに目を定めた。そうかと思うとまた今さらのように、食い荒らされた食物や、敷いたままになっている座ぶとんのきたならしく散らかった客間をまじまじと見渡した。父の書棚《しょだな》のあった部分の壁だけが四角に濃い色をしていた。そのすぐそばに西洋暦が昔のままにかけてあった。七月十六日から先ははがされずに残っていた。
 「ねえさま敷けました」
 しばらくしてから、愛子がこうかすかに隣でいった。葉子は、
 「そう御苦労さまよ」
 とまたしとやかに応《こた》えながら、貞世を抱きかかえて立ち上がろうとすると、また頭がぐらぐらッとして、おびただしい鼻血が貞世の胸の合わせ目に流れ落ちた。


    九

 底光りのする雲母色《きららいろ》の雨雲が縫い目なしにどんより[#「どんより」に傍点]と重く空いっぱいにはだかって、本牧《ほんもく》の沖合いまで東京湾の海は物すごいような草色に、小さく波の立ち騒ぐ九月二十五日の午後であった。きのうの風が凪《な》いでから、気温は急に夏らしい蒸し暑さに返って、横浜の市街は、疫病にかかって弱りきった労働者が、そぼふる雨の中にぐったりとあえいでいるように見えた。
 靴《くつ》の先で甲板《かんばん》をこつ[#「こつ」に傍点]こつとたたいて、うつむいてそれをながめながら、帯の間に手をさし込んで、木村への伝言を古藤はひとり言《ごと》のように葉子にいった。葉子はそれに耳を傾けるような様子はしていたけれども、ほんとうはさして注意もせずに、ちょうど自分の目の前に、たくさんの見送り人に囲まれて、応接に暇《いとま》もなげな田川法学|博士《はかせ》の目じりの下がった顔と、その夫人のやせぎすな肩との描く微細な感情の表現を、批評家のような心で鋭くながめやっていた。かなり広いプロメネード・デッキは田川家の家族と見送り人とで縁日のようににぎわっていた。葉子の見送りに来たはずの五十川《いそがわ》女史は先刻から田川夫人のそばに付ききって、世話好きな、人のよい叔母《おば》さんというような態度で、見送り人の半分がたを自身で引き受けて挨拶《あいさつ》していた。葉子のほうへは見向こうとする模様もなかった。葉子の叔母は葉子から二三|間《げん》離れた所に、蜘蛛《くも》のような白痴の子を小婢《こおんな》に背負わして、自分は葉子から預かった手鞄《てかばん》と袱紗《ふくさ》包みとを取り落とさんばかりにぶら下げたまま、花々しい田川家の家族や見送り人の群れを見てあっけに取られていた。葉子の乳母《うば》は、どんな大きな船でも船は船だというようにひどく臆病《おくびょう》そうな青い顔つきをして、サルンの入り口の戸の陰にたたずみながら、四角にたたんだ手ぬぐいをまっ赤《か》になった目の所に絶えず押しあてては、ぬすみ見るように葉子を見やっていた。その他の人々はじみ[#「じみ」に傍点]な一団になって、田川家の威光に圧せられたようにすみのほうにかたまっていた。
 葉子はかねて五十川女史から、田川夫婦が同船するから船の中で紹介してやるといい聞かせられていた。田川といえば、法曹界《ほうそうかい》ではかなり名の聞こえた割合に、どこといって取りとめた特色もない政客ではあるが、その人の名はむしろ夫人のうわさのために世人の記憶にあざやかであった。感受力の鋭敏なそしてなんらかの意味で自分の敵に回さなければならない人に対してことに注意深い葉子の頭には、その夫人の面影《おもかげ》は長い事宿題として考えられていた。葉子の頭に描かれた夫人は我《が》の強い、情の恣《ほしい》ままな、野心の深い割合に手練《タクト》の露骨《ろこつ》な、良人《おっと》を軽く見てややともすると笠《
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