れやかな色を顔に浮かべながら、
 「ようこそ皆様……おそくなりまして。つい行かなければならない所が二つ三つありましたもんですから……」
 とだれにともなくいっておいて、するすると立ち上がって、釘店《くぎだな》の往来に向いた大きな窓を後ろにした自分の席に着いて、妹の愛子と自分との間に割り込んで来る貞世の頭をなでながら、自分の上にばかり注がれる満座の視線を小うるさそうに払いのけた。そして片方の手でだいぶ乱れた鬢《びん》のほつれをかき上げて、葉子の視線は人もなげに古藤のほうに走った。
 「しばらくでしたのね……とうとう明朝《あした》になりましてよ。木村に持って行くものは、一緒にお持ちになって?……そう」
 と軽い調子でいったので、五十川女史と叔父とが切り出そうとした言葉は、物のみごとにさえぎられてしまった。葉子は古藤にそれだけの事をいうと、今度は当《とう》の敵ともいうべき五十川女史に振り向いて、
 「おばさま、きょう途中でそれはおかしな事がありましたのよ。こうなんですの」
 といいながら男女をあわせて八人ほど居ならんだ親類たちにずっと目を配って、
 「車で駆け通ったんですから前も後《あと》もよくはわからないんですけれども、大時計のかどの所を広小路《ひろこうじ》に出ようとしたら、そのかどにたいへんな人だかりですの。なんだと思って見てみますとね、禁酒会の大道演説で、大きな旗が二三本立っていて、急ごしらえのテーブルに突っ立って、夢中になって演説している人があるんですの。それだけなら何も別に珍しいという事はないんですけれども、その演説をしている人が……だれだとお思いになって……山脇《やまわき》さんですの」
 一同の顔には思わず知らず驚きの色が現われて、葉子の言葉に耳をそばだてていた。先刻しかつめらしい顔をした叔父《おじ》はもう白痴のように口をあけたままで薄笑いをもらしながら葉子を見つめていた。
 「それがまたね、いつものとおりに金時《きんとき》のように首筋までまっ赤《か》ですの。『諸君』とかなんとかいって大手を振り立ててしゃべっているのを、肝心《かんじん》の禁酒会員たちはあっけに取られて、黙ったまま引きさがって見ているんですから、見物人がわい[#「わい」に傍点]わいとおもしろがってたかっているのも全くもっともですわ。そのうちに、あ、叔父さん、箸《はし》をおつけになるように皆様にお
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