っしゃってくださいまし」
叔父があわてて口の締まりをして仏頂面《ぶっちょうづら》に立ち返って、何かいおうとすると、葉子はまたそれには頓着《とんじゃく》なく五十川《いそがわ》女史のほうに向いて、
「あの肩の凝《こ》りはすっかり[#「すっかり」に傍点]おなおりになりまして」
といったので、五十川女史の答えようとする言葉と、叔父のいい出そうとする言葉は気まずくも鉢合《はちあ》わせになって、二人《ふたり》は所在なげに黙ってしまった。座敷は、底のほうに気持ちの悪い暗流を潜めながら造り笑いをし合っているような不快な気分に満たされた。葉子は「さあ来い」と胸の中で身構えをしていた。五十川女史のそばにすわって、神経質らしく眉《まゆ》をきらめかす中老の官吏は、射るようないまいましげな眼光を時々葉子に浴びせかけていたが、いたたまれない様子でちょっと居ずまいをなおすと、ぎくしゃく[#「ぎくしゃく」に傍点]した調子で口をきった。
「葉子さん、あなたもいよいよ身のかたまる瀬戸ぎわまでこぎ付けたんだが……」
葉子はすきを見せたら切り返すからといわんばかりな緊張した、同時に物を物ともしないふうでその男の目を迎えた。
「何しろわたしども早月家《さつきけ》の親類に取ってはこんなめでたい事はまずない。無いには無いがこれからがあなたに頼み所だ。どうぞ一つわたしどもの顔を立てて、今度こそは立派な奥さんになっておもらいしたいがいかがです。木村君はわたしもよく知っとるが、信仰も堅いし、仕事も珍しくはき[#「はき」に傍点]はきできるし、若いに似合わぬ物のわかった仁《じん》だ。こんなことまで比較に持ち出すのはどうか知らないが、木部氏のような実行力の伴わない夢想家は、わたしなどは初めから不賛成だった。今度のはじたい[#「じたい」に傍点]段が違う。葉子さんが木部氏の所から逃げ帰って来た時には、わたしもけしからんといった実は一人《ひとり》だが、今になって見ると葉子さんはさすがに目が高かった。出て来ておいて誠によかった。いまに見なさい木村という仁なりゃ、立派に成功して、第一流の実業家に成り上がるにきまっている。これからはなんといっても信用と金だ。官界に出ないのなら、どうしても実業界に行かなければうそだ。擲身《てきしん》報国は官吏たるものの一特権だが、木村さんのようなまじめな信者にしこたま[#「しこたま」に傍点]
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