葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちどまってしまった。短くなりまさった日は本郷《ほんごう》の高台に隠れて、往来には厨《くりや》の煙とも夕靄《ゆうもや》ともつかぬ薄い霧がただよって、街頭のランプの灯《ひ》がことに赤くちらほらちらほらとともっていた。通り慣れたこの界隈《かいわい》の空気は特別な親しみをもって葉子の皮膚をなでた。心よりも肉体のほうがよけいに定子のいる所にひき付けられるようにさえ思えた。葉子の口びるは暖かい桃の皮のような定子の頬《ほお》の膚ざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんす[#「めれんす」に傍点]の弾力のある軟《やわ》らかい触感を感じていた。葉子の膝《ひざ》はふうわり[#「ふうわり」に傍点]とした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼き付いた。目には、曲がり角《かど》の朽ちかかった黒板塀《くろいたべい》を透《とお》して、木部から稟《う》けた笑窪《えくぼ》のできる笑顔《えがお》が否応なしに吸い付いて来た。……乳房はくすむったかった。葉子は思わず片頬に微笑を浮かべてあたりをぬすむように見回した。とちょうどそこを通りかかった内儀《かみ》さんが、何かを前掛けの下に隠しながらじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の立ち姿を振り返ってまで見て通るのに気がついた。
葉子は悪事でも働いていた人のように、急に笑顔を引っ込めてしまった。そしてこそ[#「こそ」に傍点]こそとそこを立ちのいて不忍《しのばず》の池《いけ》に出た。そして過去も未来も持たない人のように、池の端につくねん[#「つくねん」に傍点]と突っ立ったまま、池の中の蓮《はす》の実の一つに目を定めて、身動きもせずに小半時《こはんとき》立ち尽くしていた。
八
日の光がとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と隠れてしまって、往来の灯《ひ》ばかりが足もとのたよりとなるころ、葉子は熱病患者のように濁りきった頭をもてあまして、車に揺られるたびごとに眉《まゆ》を痛々しくしかめながら、釘店《くぎだな》に帰って来た。
玄関にはいろいろの足駄《あしだ》や靴《くつ》がならべてあったが、流行を作ろう、少なくとも流行に遅れまいというはなやかな心を誇るらしい履物《はきもの》といっては一つも見当たらなかった。自分の草履《ぞうり》を始末しながら、葉子はすぐに二階の客間の模様を想像して、自分のために親戚《しんせき》や知人が
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