しばらくの間《あいだ》葉子はこの奇怪な心の動揺のために店を立ち去る事もしないでたたずんでいたが、ふとどうにでもなれという捨てばちな気になって元気を取り直しながら、いくらかの礼をしてそこを出た。出るには出たが、もう車に乗る気にもなれなかった。これから定子に会いに行ってよそながら別れを惜しもうと思っていたその心組みさえ物憂《ものう》かった。定子に会ったところがどうなるものか。自分の事すら次の瞬間には取りとめもないものを、他人の事――それはよし自分の血を分けた大切な独子《ひとりご》であろうとも――などを考えるだけがばかな事だと思った。そしてもう一度そこの店から巻紙《まきがみ》を買って、硯箱《すずりばこ》を借りて、男恥ずかしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れるつもりだったが、それができなくなったから、この後とも定子をよろしく頼む。当座の費用として金を少し送っておくという意味を簡単にしたためて、永田から送ってよこした為替《かわせ》の金を封入して、その店を出た。そしていきなり[#「いきなり」に傍点]そこに待ち合わしていた人力車の上の膝掛《ひざか》けをはぐって、蹴込《けこ》みに打ち付けてある鑑札にしっかり[#「しっかり」に傍点]目を通しておいて、
 「わたしはこれから歩いて行くから、この手紙をここへ届けておくれ、返事はいらないのだから……お金ですよ、少しどっさり[#「どっさり」に傍点]あるから大事にしてね」
 と車夫にいいつけた。車夫はろくに見知りもないものに大金を渡して平気でいる女の顔を今さらのようにきょと[#「きょと」に傍点]きょとと見やりながら空俥《からぐるま》を引いて立ち去った。大八車《だいはちぐるま》が続けさまに田舎《いなか》に向いて帰って行く小石川の夕暮れの中を、葉子は傘《かさ》を杖《つえ》にしながら思いにふけって歩いて行った。
 こもった哀愁が、発しない酒のように、葉子のこめかみをちかちかと痛めた。葉子は人力車の行くえを見失っていた。そして自分ではまっすぐに釘店《くぎだな》のほうに急ぐつもりでいた。ところが実際は目に見えぬ力で人力車に結び付けられでもしたように、知らず知らず人力車の通ったとおりの道を歩いて、はっ[#「はっ」に傍点]と気がついた時にはいつのまにか、乳母が住む下谷《したや》池《いけ》の端《はた》の或《あ》る曲がり角《かど》に来て立っていた。
 そこで
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