立ったような感じを受けた。同時に鼻血がどくどく口から顎《あご》を伝って胸の合わせ目をよごした。驚いてハンケチを袂《たもと》から探り出そうとした時、
 「どうかなさいましたか」
 という声に驚かされて、葉子は始めて自分のあとに人力車がついて来ていたのに気が付いた。見ると捨て石のある所はもう八九町後ろになっていた。
 「鼻血なの」
 と応《こた》えながら葉子は初めてのようにあたりを見た。そこには紺暖簾《こんのれん》を所せまくかけ渡した紙屋の小店があった。葉子は取りあえずそこにはいって、人目を避けながら顔を洗わしてもらおうとした。
 四十格好の克明《こくめい》らしい内儀《かみ》さんがわが事のように金盥《かなだらい》に水を移して持って来てくれた。葉子はそれで白粉気《おしろいけ》のない顔を思う存分に冷やした。そして少し人心地《ひとごこち》がついたので、帯の間から懐中鏡を取り出して顔を直そうとすると、鏡がいつのまにかま二つに破《わ》れていた。先刻けつまずいた拍子に破れたのかしらんと思ってみたが、それくらいで破れるはずはない。怒りに任せて胸がかっ[#「かっ」に傍点]となった時、破れたのだろうか。なんだかそうらしくも思えた。それともあすの船出の不吉を告げる何かの業《わざ》かもしれない。木村との行く末の破滅を知らせる悪い辻占《つじうら》かもしれない。またそう思うと葉子は襟元《えりもと》に凍った針でも刺されるように、ぞくぞくとわけのわからない身ぶるいをした。いったい自分はどうなって行くのだろう。葉子はこれまでの見窮められない不思議な自分の運命を思うにつけ、これから先の運命が空恐ろしく心に描かれた。葉子は不安な悒鬱《ゆううつ》な目つきをして店を見回した。帳場にすわり込んだ内儀《かみ》さんの膝《ひざ》にもたれて、七つほどの少女が、じっ[#「じっ」に傍点]と葉子の目を迎えて葉子を見つめていた。やせぎすで、痛々しいほど目の大きな、そのくせ黒目の小さな、青白い顔が、薄暗い店の奥から、香料や石鹸《せっけん》の香につつまれて、ぼんやり浮き出たように見えるのが、何か鏡の破《わ》れたのと縁でもあるらしくながめられた。葉子の心は全くふだんの落ち付きを失ってしまったようにわく[#「わく」に傍点]わくして、立ってもすわってもいられないようになった。ばかなと思いながらこわいものにでも追いすがられるようだった。

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