って。……もっともこれは、あなたのおために申しますの。わたしはだれにあやまっていただくのもいやですし、だれにあやまるのもいやな性分《しょうぶん》なんですから、おじさんに許していただこうとは頭《てん》から思ってなどいはしませんの。それもついでにおっしゃってくださいまし」
口のはたに戯談《じょうだん》らしく微笑を見せながら、そういっているうちに、大濤《おおなみ》がどすん[#「どすん」に傍点]どすんと横隔膜につきあたるような心地《ここち》がして、鼻血でも出そうに鼻の孔《あな》がふさがった。門を出る時も口びるはなおくやしそうに震えていた。日は植物園の森の上に舂《うすず》いて、暮れがた近い空気の中に、けさから吹き出していた風はなぎた。葉子は今の心と、けさ早く風の吹き始めたころに、土蔵わきの小部屋《こべや》で荷造りをした時の心とをくらべて見て、自分ながら同じ心とは思い得なかった。そして門を出て左に曲がろうとしてふと道ばたの捨て石にけつまずいて、はっ[#「はっ」に傍点]と目がさめたようにあたりを見回した。やはり二十五の葉子である。いヽえ昔たしかに一度けつまずいた事があった。そう思って葉子は迷信家のようにもう一度振り返って捨て石を見た。その時に日は……やはり植物園の森のあのへんにあった。そして道の暗さもこのくらいだった。自分はその時、内田の奥さんに内田の悪口をいって、ペテロとキリストとの間に取りかわされた寛恕《かんじょ》に対する問答を例に引いた。いヽえ、それはきょうした事だった。きょう意味のない涙を奥さんがこぼしたように、その時も奥さんは意味のない涙をこぼした。その時にも自分は二十五……そんな事はない。そんな事のあろうはずがない……変な……。それにしてもあの捨て石には覚えがある。あれは昔からあすこにちゃん[#「ちゃん」に傍点]とあった。こう思い続けて来ると、葉子は、いつか母と遊びに来た時、何か怒《おこ》ってその捨て石にかじり付いて動かなかった事をまざまざと心に浮かべた。その時は大きな石だと思っていたのにこれんぼっちの石なのか。母が当惑して立った姿がはっきり目先に現われた。と思うとやがてその輪郭が輝き出して、目も向けられないほど耀《かがや》いたが、すっ[#「すっ」に傍点]と惜しげもなく消えてしまって、葉子は自分のからだが中有《ちゅうう》からどっしり[#「どっしり」に傍点]大地におり
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