れでも男はようござんすのね、わがままが通るんですもの。女のわがままは通すよりしかたがないんですからほんとうに情けなくなりますのね。何も前世の約束なんでしょうよ……」
 内田の細君は自分よりはるか年下の葉子の言葉をしみじみと聞いているらしかった。葉子は葉子でしみじみと細君の身なりを見ないではいられなかった。一昨日《おととい》あたり結ったままの束髪《そくはつ》だった。癖のない濃い髪には薪《たきぎ》の灰らしい灰がたかっていた。糊気《のりけ》のぬけきった単衣《ひとえ》も物さびしかった。その柄《がら》の細かい所には里の母の着古しというような香《にお》いがした。由緒《ゆいしょ》ある京都の士族に生まれたその人の皮膚は美しかった。それがなおさらその人をあわれにして見せた。
 「他人《ひと》の事なぞ考えていられやしない」しばらくすると葉子は捨てばちにこんな事を思った。そして急にはずんだ調子になって、
 「わたしあすアメリカに発《た》ちますの、ひとりで」
 と突拍子《とっぴょうし》もなくいった。あまりの不意に細君は目を見張って顔をあげた。
 「まあほんとうに」
 「はあほんとうに……しかも木村の所に行くようになりましたの。木村、御存じでしょう」
 細君がうなずいてなお仔細《しさい》を聞こうとすると、葉子は事もなげにさえぎって、
 「だからきょうはお暇乞《いとまご》いのつもりでしたの。それでもそんな事はどうでもようございますわ。おじさんがお帰りになったらよろしくおっしゃってくださいまし、葉子はどんな人間になり下がるかもしれませんって……あなたどうぞおからだをお大事に。太郎《たろう》さんはまだ学校でございますか。大きくおなりでしょうね。なんぞ持って上がればよかったのに、用がこんなものですから」
 といいながら両手で大きな輪を作って見せて、若々しくほほえみながら立ち上がった。
 玄関に送って出た細君の目には涙がたまっていた。それを見ると、人はよく無意味な涙を流すものだと葉子は思った。けれどもあの涙も内田が無理無体にしぼり出させるようなものだと思い直すと、心臓の鼓動が止まるほど葉子の心はかっ[#「かっ」に傍点]となった。そして口びるを震わしながら、
 「もう一言《ひとこと》おじさんにおっしゃってくださいまし、七度を七十倍はなさらずとも、せめて三度ぐらいは人の尤《とが》も許して上げてくださいまし
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