そんな事があってから五年を過ぎたきょう、郵便局に行って、永田から来た為替《かわせ》を引き出して、定子を預かってくれている乳母《うば》の家に持って行こうと思った時、葉子は紙幣の束を算《かぞ》えながら、ふと内田の最後の言葉を思い出したのだった。物のない所に物を探るような心持ちで葉子は人力車を大塚のほうに走らした。
 五年たっても昔のままの構えで、まばらにさし代えた屋根板と、めっきり[#「めっきり」に傍点]延びた垣添《かきぞ》いの桐《きり》の木とが目立つばかりだった。砂きしみのする格子戸《こうしど》をあけて、帯前を整えながら出て来た柔和な細君《さいくん》と顔を合わせた時は、さすがに懐旧の情が二人の胸を騒がせた。細君は思わず知らず「まあどうぞ」といったが、その瞬間にはっ[#「はっ」に傍点]とためらったような様子になって、急いで内田の書斎にはいって行った。しばらくすると嘆息しながら物をいうような内田の声が途切れ途切れに聞こえた。「上げるのは勝手だがおれが会う事はないじゃないか」といったかと思うと、はげしい音を立てて読みさしの書物をぱたん[#「ぱたん」に傍点]と閉じる音がした。葉子は自分の爪先《つまさき》を見つめながら下くちびるをかんでいた。
 やがて細君がおどおどしながら立ち現われて、まずと葉子を茶の間《ま》に招じ入れた。それと入れ代わりに、書斎では内田が椅子《いす》を離れた音がして、やがて内田はずかずかと格子戸をあけて出て行ってしまった。
 葉子は思わずふらふらッと立ち上がろうとするのを、何気ない顔でじっ[#「じっ」に傍点]とこらえた。せめては雷のような激しいその怒りの声に打たれたかった。あわよくば自分も思いきりいいたい事をいってのけたかった。どこに行っても取りあいもせず、鼻であしらい、鼻であしらわれ慣れた葉子には、何か真味な力で打ちくだかれるなり、打ちくだくなりして見たかった。それだったのに思い入って内田の所に来て見れば、内田は世の常の人々よりもいっそう冷ややかに酷《むご》く思われた。
 「こんな事をいっては失礼ですけれどもね葉子さん、あなたの事をいろいろにいって来る人があるもんですからね、あのとおりの性質でしょう。どうもわたしにはなんともいいなだめようがないのですよ。内田があなたをお上げ申したのが不思議なほどだとわたし思いますの。このごろはことさらだれにもいわれないよう
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