様子がないので、両家の間は見る見る疎々《うとうと》しいものになってしまった。それでも内田は葉子セけには不思議に愛着を持っていたと見えて、よく葉子のうわさをして、「子猿」だけは引き取って子供同様に育ててやってもいいなぞといったりした。内田は離縁した最初の妻が連れて行ってしまったたった[#「たった」に傍点]一人《ひとり》の娘にいつまでも未練を持っているらしかった。どこでもいいその娘に似たらしい所のある少女を見ると、内田は日ごろの自分を忘れたように甘々《あまあま》しい顔つきをした。人が怖れる割合に、葉子には内田が恐ろしく思えなかったばかりか、その峻烈《しゅんれつ》な性格の奥にとじこめられて小さくよどんだ愛情に触れると、ありきたりの人間からは得られないようななつかしみを感ずる事があった。葉子は母に黙って時々内田を訪れた。内田は葉子が来ると、どんな忙しい時でも自分の部屋《へや》に通して笑い話などをした。時には二人だけで郊外の静かな並み木道などを散歩したりした。ある時内田はもう娘らしく生長した葉子の手を堅く握って、「お前は神様以外の私のただ一人の道伴《みちづ》れだ」などといった。葉子は不思議な甘い心持ちでその言葉を聞いた。その記憶は長く忘れ得なかった。
 それがあの木部との結婚問題が持ち上がると、内田は否応《いやおう》なしにある日葉子を自分の家に呼びつけた。そして恋人の変心を詰《なじ》り責める嫉妬《しっと》深い男のように、火と涙とを目からほとばしらせて、打ちもすえかねぬまでに狂い怒った。その時ばかりは葉子も心から激昂《げきこう》させられた。「だれがもうこんなわがままな人の所に来てやるものか」そう思いながら、生垣《いけがき》の多い、家並《やな》みのまばらな、轍《わだち》の跡のめいりこんだ小石川《こいしかわ》の往来を歩き歩き、憤怒の歯ぎしりを止めかねた。それは夕闇《ゆうやみ》の催した晩秋だった。しかしそれと同時になんだか大切なものを取り落としたような、自分をこの世につり上げてる糸の一つがぷつん[#「ぷつん」に傍点]と切れたような不思議なさびしさの胸に逼《せま》るのをどうする事もできなかった。
 「キリストに水をやったサマリヤの女の事も思うから、この上お前には何もいうまい――他人《ひと》の失望も神の失望もちっと[#「ちっと」に傍点]は考えてみるがいい、……罪だぞ、恐ろしい罪だぞ」
 
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