鈴《すず》のように大きく張って、親しい媚《こ》びの色を浮かべながら、黙ったままで軽くうなずこうと、少し肩と顔とをそっちにひねって、心持ち上向《うわむ》きかげんになった時、稲妻のように彼女の心に響いたのは、男がその好意に応じてほほえみかわす様子のないという事だった。実際男の一文字眉《いちもんじまゆ》は深くひそんで、その両眼はひときわ鋭さを増して見えた。それを見て取ると葉子の心の中はかっ[#「かっ」に傍点]となったが、笑《え》みかまけたひとみはそのままで、するすると男の顔を通り越して、左側の古藤の血気《けっき》のいい頬《ほお》のあたりに落ちた。古藤は繰り戸のガラス越しに、切り割りの崕《がけ》をながめてつくねん[#「つくねん」に傍点]としていた。
 「また何か考えていらっしゃるのね」
 葉子はやせた木部《きべ》にこれ見よがしという物腰ではなやかにいった。
 古藤はあまりはずんだ葉子の声にひかされて、まんじり[#「まんじり」に傍点]とその顔を見守った。その青年の単純な明《あか》らさまな心に、自分の笑顔《えがお》の奥の苦い渋い色が見抜かれはしないかと、葉子は思わずたじろ[#「たじろ」に傍点]いだほどだった。
 「なんにも考えていやしないが、陰になった崕《がけ》の色が、あまりきれいだもんで……紫に見えるでしょう。もう秋がかって来たんですよ。」
 青年は何も思っていはしなかったのだ。
 「ほんとうにね」
 葉子は単純に応じて、もう一度ちらっ[#「ちらっ」に傍点]と木部を見た。やせた木部の目は前と同じに鋭く輝いていた。葉子は正面に向き直るとともに、その男のひとみの下で、悒鬱《ゆううつ》な険しい色を引きしめた口のあたりにみなぎらした。木部はそれを見て自分の態度を後悔すべきはずである。

    二
    
 葉子は木部が魂を打ちこんだ初恋の的《まと》だった。それはちょうど日清《にっしん》戦争が終局を告げて、国民一般はだれかれの差別なく、この戦争に関係のあった事柄や人物やに事実以上の好奇心をそそられていたころであったが、木部は二十五という若い齢《とし》で、ある大新聞社の従軍記者になってシナに渡り、月並みな通信文の多い中に、きわだって観察の飛び離れた心力のゆらいだ文章を発表して、天才記者という名を博してめでたく凱旋《がいせん》したのであった。そのころ女流キリスト教徒の先覚者として、キリ
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