り口の繰り戸を古藤が勢いよくあけるのを待って、中にはいろうとして、八分通りつまった両側の乗客に稲妻《いなずま》のように鋭く目を走らしたが、左側の中央近く新聞を見入った、やせた中年の男に視線がとまると、はっ[#「はっ」に傍点]と立ちすくむほど驚いた。しかしその驚きはまたたく暇もないうちに、顔からも足からも消えうせて、葉子は悪《わる》びれもせず、取りすましもせず、自信ある女優が喜劇の舞台にでも現われるように、軽い微笑を右の頬《ほお》だけに浮かべながら、古藤に続いて入り口に近い右側の空席に腰をおろすと、あでやかに青年を見返りながら、小指をなんともいえないよい形に折り曲げた左手で、鬢《びん》の後《おく》れ毛《げ》をかきなでるついでに、地味《じみ》に装って来た黒のリボンにさわってみた。青年の前に座を取っていた四十三四の脂《あぶら》ぎった商人|体《てい》の男は、あたふた[#「あたふた」に傍点]と立ち上がって自分の後ろのシェードをおろして、おりふし横ざしに葉子に照りつける朝の光線をさえぎった。
紺の飛白《かすり》に書生下駄《しょせいげた》をつっかけた青年に対して、素性《すじょう》が知れぬほど顔にも姿にも複雑な表情をたたえたこの女性の対照は、幼い少女の注意をすらひかずにはおかなかった。乗客一同の視線は綾《あや》をなして二人《ふたり》の上に乱れ飛んだ。葉子は自分が青年の不思議な対照になっているという感じを快く迎えてでもいるように、青年に対してことさら親しげな態度を見せた。
品川《しながわ》を過ぎて短いトンネルを汽車が出ようとする時、葉子はきびしく自分を見すえる目を眉《まゆ》のあたりに感じておもむろにそのほうを見かえった。それは葉子が思ったとおり、新聞に見入っているかのやせた男だった。男の名は木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、8−8]《きべこきょう》といった。葉子が車内に足を踏み入れた時、だれよりも先に葉子に目をつけたのはこの男であったが、だれよりも先に目をそらしたのもこの男で、すぐ新聞を目八|分《ぶ》にさし上げて、それに読み入って素知《そし》らぬふりをしたのに葉子は気がついていた。そして葉子に対する乗客の好奇心が衰え始めたころになって、彼は本気に葉子を見つめ始めたのだ。葉子はあらかじめこの刹那《せつな》に対する態度を決めていたからあわても騒ぎもしなかった。目を
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