スト教婦人同盟の副会長をしていた葉子の母は、木部の属していた新聞社の社長と親しい交際のあった関係から、ある日その社の従軍記者を自宅に招いて慰労の会食を催した。その席で、小柄《こがら》で白皙《はくせき》で、詩吟の声の悲壮な、感情の熱烈なこの少壮従軍記者は始めて葉子を見たのだった。
 葉子はその時十九だったが、すでに幾人もの男に恋をし向けられて、その囲みを手ぎわよく繰りぬけながら、自分の若い心を楽しませて行くタクトは充分に持っていた。十五の時に、袴《はかま》をひもで締《し》める代わりに尾錠《びじょう》で締めるくふうをして、一時女学生界の流行を風靡《ふうび》したのも彼女である。その紅《あか》い口びるを吸わして首席を占めたんだと、厳格で通《とお》っている米国人の老校長に、思いもよらぬ浮き名を負わせたのも彼女である。上野《うえの》の音楽学校にはいってヴァイオリンのけいこを始めてから二か月ほどの間《あいだ》にめきめき上達して、教師や生徒の舌を巻かした時、ケーべル博士《はかせ》一人《ひとり》は渋い顔をした。そしてある日「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と無愛想《ぶあいそ》にいってのけた。それを聞くと「そうでございますか」と無造作《むぞうさ》にいいながら、ヴァイオリンを窓の外にほうりなげて、そのまま学校を退学してしまったのも彼女である。キリスト教婦人同盟の事業に奔走し、社会では男まさりのしっかり者という評判を取り、家内では趣味の高いそして意志の弱い良人《おっと》を全く無視して振る舞ったその母の最も深い隠れた弱点を、拇指《ぼし》と食指《しょくし》との間《あいだ》にちゃん[#「ちゃん」に傍点]と押えて、一歩もひけ[#「ひけ」に傍点]を取らなかったのも彼女である。葉子の目にはすべての人が、ことに男が底の底まで見すかせるようだった。葉子はそれまで多くの男をかなり近くまで潜《もぐ》り込ませて置いて、もう一歩という所で突っ放《ぱな》した。恋の始めにはいつでも女性が祭り上げられていて、ある機会を絶頂に男性が突然女性を踏みにじるという事を直覚のように知っていた葉子は、どの男に対しても、自分との関係の絶頂がどこにあるかを見ぬいていて、そこに来かかると情け容赦もなくその男を振り捨ててしまった。そうして捨てられた多くの男は、葉子を恨むよりも自分たちの獣性を恥じるように見えた。そして彼らは
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