端が指輪の二つはまった大理石のような葉子の手にもてあそばれていた。
 「お遅《おそ》うござんした事。お待たされなすったんでしょう。……さ、おはいりなさいまし。そんなもの足ででもどけてちょうだい、散らかしちまって」
 この音楽のようなすべすべした調子の声を聞くと、古藤は始めて illusion から目ざめたふうではいって来た。葉子は左手を二の腕がのぞき出るまでずっ[#「ずっ」に傍点]と延ばして、そこにあるものを一払《ひとはら》いに払いのけると、花壇の土を掘り起こしたようにきたない畳が半畳ばかり現われ出た。古藤は自分の帽子を部屋のすみにぶちなげて置いて、払い残された細形《ほそがた》の金鎖を片づけると、どっか[#「どっか」に傍点]とあぐらをかいて正面から葉子を見すえながら、
 「行って来ました。船の切符もたしかに受け取って来ました」
 といってふところの中を探りにかかった。葉子はちょっと改まって、
 「ほんとにありがとうございました」
 と頭を下げたが、たちまち roughish な目つきをして、
 「まあそんな事はいずれあとで、ね、……何しろお寒かったでしょう、さ」
 といいながら飲み残りの酒を盆の上に無造作に捨てて、二三度左手をふってしずくを切ってから、コップを古藤にさしつけた。古藤の目は何かに激昂《げきこう》しているように輝いていた。
 「僕は飲みません」
 「おやなぜ」
 「飲みたくないから飲まないんです」
 この角《かど》ばった返答は男を手もなくあやし慣れている葉子にも意外だった。それでそのあとの言葉をどう継ごうかと、ちょっとためらって古藤の顔を見やっていると、古藤はたたみかけて口をきった。
 「永田ってのはあれはあなたの知人ですか。思いきって尊大な人間ですね。君のような人間から金を受け取る理由はないが、とにかくあずかって置いて、いずれ直接あなたに手紙でいってあげるから、早く帰れっていうんです、頭から。失敬なやつだ」
 葉子はこの言葉に乗じて気まずい心持ちを変えようと思った。そしてまっしぐらに何かいい出そうとすると、古藤はおっかぶせるように言葉を続けて、
 「あなたはいったいまだ腹が痛むんですか」
 ときっぱり[#「きっぱり」に傍点]いって堅くすわり直した。しかしその時に葉子の陣立てはすでにでき上がっていた。初めのほほえみをそのままに、
 「えゝ、少しはよくなり
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