去を聞かされはしなかったろうか。そんな事を思うと葉子は悒鬱《ゆううつ》が生み出す反抗的な気分になって、湯をわかさせて入浴し、寝床をしかせ、最上等の三鞭酒《シャンペン》を取りよせて、したたかそれを飲むと前後も知らず眠ってしまった。
 夜になったら泊まり客があるかもしれないと女中のいった五つの部屋《へや》はやはり空《から》のままで、日がとっぷりと暮れてしまった。女中がランプを持って来た物音に葉子はようやく目をさまして、仰向いたまま、すすけた天井に描かれたランプの丸い光輪をぼんやりとながめていた。
 その時じたッ[#「じたッ」に傍点]じたッとぬれた足で階子段《はしごだん》をのぼって来る古藤の足音が聞こえた。古藤は何かに腹を立てているらしい足どりでずかずかと縁側を伝って来たが、ふと立ち止まると大きな声で帳場《ちょうば》のほうにどなった。
 「早く雨戸をしめないか……病人がいるんじゃないか。……」
 「この寒いのになんだってあなたも言いつけないんです」
 今度はこう葉子にいいながら、建て付けの悪い障子をあけていきなり[#「いきなり」に傍点]中にはいろうとしたが、その瞬間にはっ[#「はっ」に傍点]と驚いたような顔をして立ちすくんでしまった。
 香水や、化粧品や、酒の香をごっちゃ[#「ごっちゃ」に傍点]にした暖かいいきれ[#「いきれ」に傍点]がいきなり古藤に迫ったらしかった。ランプがほの暗いので、部屋のすみずみまでは見えないが、光の照り渡る限りは、雑多に置きならべられたなまめかしい女の服地や、帽子や、造花や、鳥の羽根や、小道具などで、足の踏みたて場もないまでになっていた。その一方に床の間を背にして、郡内《ぐんない》のふとんの上に掻巻《かいまき》をわきの下から羽織った、今起きかえったばかりの葉子が、はでな長襦袢《ながじゅばん》一つで東ヨーロッパの嬪宮《ひんきゅう》の人のように、片臂《かたひじ》をついたまま横になっていた。そして入浴と酒とでほんのり[#「ほんのり」に傍点]ほてった顔を仰向けて、大きな目を夢のように見開いてじっ[#「じっ」に傍点]と古藤を見た。その枕《まくら》もとには三鞭酒《シャンペン》のびんが本式に氷の中につけてあって、飲みさしのコップや、華奢《きゃしゃ》な紙入れや、かのオリーヴ色の包み物を、しごき[#「しごき」に傍点]の赤が火の蛇《くちなわ》のように取り巻いて、その
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