れにもかかわらず親佐の客間に吸い寄せられる若い人々の多数は葉子に吸い寄せられているのだった。葉子の控え目なしおらしい様子がいやが上にも人のうわさを引く種《たね》となって、葉子という名は、多才で、情緒の細《こま》やかな、美しい薄命児をだれにでも思い起こさせた。彼女の立ちすぐれた眉目形《みめかたち》は花柳《かりゅう》の人たちさえうらやましがらせた。そしていろいろな風聞が、清教徒風に質素な早月の佗住居《わびずまい》の周囲を霞《かすみ》のように取り巻き始めた。
 突然小さな仙台市は雷にでも打たれたようにある朝の新聞記事に注意を向けた。それはその新聞の商売がたきである或《あ》る新聞の社主であり主筆である某が、親佐と葉子との二人《ふたり》に同時に慇懃《いんぎん》を通じているという、全紙にわたった不倫きわまる記事だった。だれも意外なような顔をしながら心の中ではそれを信じようとした。
 この日髪の毛の濃い、口の大きい、色白な一人《ひとり》の青年を乗せた人力車《じんりきしゃ》が、仙台の町中を忙《せわ》しく駆け回ったのを注意した人はおそらくなかったろうが、その青年は名を木村《きむら》といって、日ごろから快活な活動好きな人として知られた男で、その熱心な奔走の結果、翌日の新聞紙の広告欄には、二段抜きで、知事令夫人以下十四五名の貴婦人の連名で早月親佐《さつきおやさ》の冤罪《えんざい》が雪《すす》がれる事になった。この稀有《けう》の大《おお》げさな広告がまた小さな仙台の市中をどよめき渡らした。しかし木村の熱心も口弁も葉子の名を広告の中に入れる事はできなかった。
 こんな騒ぎが持ち上がってから早月親佐の仙台における今までの声望は急に無くなってしまった。そのころちょうど東京に居残っていた早月が病気にかかって薬に親しむ身となったので、それをしお[#「しお」に傍点]に親佐は子供を連れて仙台を切り上げる事になった。
 木村はその後すぐ早月|母子《おやこ》を追って東京に出て来た。そして毎日入りびたるように早月家に出入りして、ことに親佐の気に入るようになった。親佐が病気になって危篤に陥った時、木村は一生の願いとして葉子との結婚を申し出た。親佐はやはり母だった。死期を前に控えて、いちばん気にせずにいられないものは、葉子の将来だった。木村ならばあのわがままな、男を男とも思わぬ葉子に仕えるようにして行く事ができる
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