広い住宅にたった一人《ひとり》残したまま、葉子ともに三人の娘を連れて、親佐は仙台《せんだい》に立ちのいてしまった。木部の友人たちが葉子の不人情を怒って、木部のとめるのもきかずに、社会から葬ってしまえとひしめいているのを葉子は聞き知っていたから、ふだんならば一も二もなく父をかばって母に楯《たて》をつくべきところを、素直《すなお》に母のするとおりになって、葉子は母と共に仙台に埋《うず》もれに行った。母は母で、自分の家庭から葉子のような娘の出た事を、できるだけ世間《せけん》に知られまいとした。女子教育とか、家庭の薫陶とかいう事をおりあるごとに口にしていた親佐は、その言葉に対して虚偽という利子を払わねばならなかった。一方をもみ消すためには一方にどん[#「どん」に傍点]と火の手をあげる必要がある。早月母子《さつきおやこ》が東京を去るとまもなく、ある新聞は早月《さつき》ドクトルの女性に関するふしだら[#「ふしだら」に傍点]を書き立てて、それにつけての親佐の苦心と貞操とを吹聴《ふいちょう》したついでに、親佐が東京を去るようになったのは、熱烈な信仰から来る義憤と、愛児を父の悪感化から救おうとする母らしい努力に基づくものだ。そのために彼女はキリスト教婦人同盟の副会長という顕要な位置さえ投げすてたのだと書き添えた。
 仙台における早月親佐はしばらくの間《あいだ》は深く沈黙を守っていたが、見る見る周囲に人を集めて華々《はなばな》しく活動をし始めた。その客間は若い信者や、慈善家や、芸術家たちのサロンとなって、そこからリバイバルや、慈善|市《いち》や、音楽会というようなものが形を取って生まれ出た。ことに親佐が仙台支部長として働き出したキリスト教婦人同盟の運動は、その当時|野火《のび》のような勢いで全国に広がり始めた赤十字社の勢力にもおさおさ劣らない程の盛況を呈した。知事令夫人も、名だたる素封家《そほうか》の奥さんたちもその集会には列席した。そして三か年の月日は早月親佐を仙台には無くてはならぬ名物の一つにしてしまった。性質が母親とどこか似すぎているためか、似たように見えて一調子違っているためか、それとも自分を慎むためであったか、はたの人にはわからなかったが、とにかく葉子はそんなはなやかな雰囲気《ふんいき》に包まれながら、不思議なほど沈黙を守って、ろくろく晴れの座などには姿を現わさないでいた。そ
前へ 次へ
全170ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング