我慢ができますか」
葉子は苦しげにほほえんで見せた。
「あなただったらきっとできないでしょうよ。……慣れっこですからこらえて見ますわ。その代わりあなた永田《ながた》さん……永田さん、ね、郵船会社の支店長の……あすこに行って船の切符の事を相談して来ていただけないでしょうか。御迷惑ですわね。それでもそんな事までお願いしちゃあ……ようござんす、わたし、車でそろそろ行きますから」
古藤は、女というものはこれほどの健康の変調をよくもこうまで我慢をするものだというような顔をして、もちろん自分が行ってみるといい張った。
実はその日、葉子は身のまわりの小道具や化粧品を調《ととの》えかたがた、米国行きの船の切符を買うために古藤を連れてここに来たのだった。葉子はそのころすでに米国にいるある若い学士と許嫁《いいなずけ》の間柄になっていた。新橋で車夫が若奥様と呼んだのも、この事が出入りのものの間に公然と知れわたっていたからの事だった。
それは葉子が私生子を設けてからしばらく後の事だった。ある冬の夜、葉子の母の親佐《おやさ》が何かの用でその良人《おっと》の書斎に行こうと階子段《はしごだん》をのぼりかけると、上から小間使いがまっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に駆けおりて来て、危うく親佐にぶっ突かろうとしてそのそばをすりぬけながら、何か意味のわからない事を早口にいって[#底本では「いつて」、26−10]走り去った。その島田髷《しまだまげ》や帯の乱れた後ろ姿が、嘲弄《ちょうろう》の言葉のように目を打つと、親佐は口びるをかみしめたが、足音だけはしとやか[#「しとやか」に傍点]に階子段《はしごだん》を上がって、いつもに似ず書斎の戸の前に立ち止まって、しわぶきを一つして、それから規則正しく間《ま》をおいて三度戸をノックした。
こういう事があってから五日《いつか》とたたぬうちに、葉子の家庭すなわち早月家《さつきけ》は砂の上の塔のようにもろくもくずれてしまった。親佐はことに冷静な底気味わるい態度で夫婦の別居を主張した。そして日ごろの柔和に似ず、傷ついた[#底本では「傷ついに」と誤り]牡牛《おうし》のように元どおりの生活を回復しようとひしめく良人《おっと》や、中にはいっていろいろ言いなそうとした親類たちの言葉を、きっぱり[#「きっぱり」に傍点]としりぞけてしまって、良人を釘店《くぎだな》のだだっ
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