ケットにのぞかせてあった大きなリンネルのハンケチを取り出して、器用に片手でそれをふわり[#「ふわり」に傍点]と丸めておいて、ちん[#「ちん」に傍点]と鼻をかんでから、また器用にそれをポケットに戻《もど》すと、
「だめです」
といかにも絶望的な調子でいったが、その目はすでに笑っていた。サンフランシスコの領事が在留日本人の企業に対して全然冷淡で盲目であるという事、日本人間に嫉視《しっし》が激しいので、サンフランシスコでの事業の目論見《もくろみ》は予期以上の故障にあって大体失敗に終わった事、思いきった発展はやはり想像どおりの米国の西部よりも中央、ことにシカゴを中心として計画されなければならぬという事、幸いに、サンフランシスコで自分の話に乗ってくれるある手堅いドイツ人に取り次ぎを頼んだという事、シヤトルでも相当の店を見いだしかけているという事、シカゴに行ったら、そこで日本の名誉領事をしているかなりの鉄物商の店にまず住み込んで米国における取り引きの手心をのみ込むと同時に、その人の資本の一部を動かして、日本との直《じか》取り引きを始める算段であるという事、シカゴの住まいはもう決まって、借りるべきフラットの図面まで取り寄せてあるという事、フラットは不経済のようだけれども部屋《へや》の明いた部分を又貸《またが》しをすれば、たいして高いものにもつかず、住まい便利は非常にいいという事……そういう点にかけては、なかなか綿密に行き届いたもので、それをいかにも企業家らしい説服的な口調で順序よく述べて行った。会話の流れがこう変わって来ると、葉子は始めて泥《どろ》の中から足を抜き上げたような気軽な心持ちになって、ずっ[#「ずっ」に傍点]と木村を見つめながら、聞くともなしにその話に聞き耳を立てていた。木村の容貌《ようぼう》はしばらくの間に見違えるほど refine されて、元から白かったその皮膚は何か特殊な洗料で底光りのするほどみがきがかけられて、日本人とは思えぬまでなめらかなのに、油できれいに分けた濃い黒髪は、西洋人の金髪にはまた見られぬような趣のある対照をその白皙《はくせき》の皮膚に与えて、カラーとネクタイの関係にも人に気のつかぬ凝りかたを見せていた。
「会いたてからこんな事をいうのは恥ずかしいですけれども、実際今度という今度は苦闘しました。ここまで迎いに来るにもろくろく旅費がない騒ぎで
前へ
次へ
全170ページ中144ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング