の上にある葉巻をつまんだ。
 葉子は笑うよりも腹だたしく、腹だたしいよりも泣きたいくらいになっていた。口びるをぶるぶると震わしながら涙でもたまったように輝く目は剣《けん》を持って、恨みをこめて事務長を見入ったが、事務長は無頓着《むとんじゃく》に下を向いたまま、一心に葉巻に火をつけている。葉子は胸に抑《おさ》えあまる恨みつらみをいい出すには、心があまりに震えて喉《のど》がかわききっているので、下くちびるをかみしめたまま黙っていた。
 倉地はそれを感づいているのだのにと葉子は置きざりにされたようなやり所のないさびしさを感じていた。
 ボーイがシャンペンとコップとを持ってはいって来た。そして丁寧にそれを事務テーブルの上に置いて、さっきのように意味ありげな微笑をもらしながら、そっ[#「そっ」に傍点]と葉子をぬすみ見た。待ち構えていた葉子の目はしかしボーイを笑わしてはおかなかった。ボーイはぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として飛んでもない事をしたというふうに、すぐ慎み深い給仕《きゅうじ》らしく、そこそこに部屋《へや》を出て行った。
 事務長は葉巻の煙に顔をしかめながら、シャンペンをついで盆を葉子のほうにさし出した。葉子は黙って立ったまま手を延ばした。何をするにも心にもない作り事をしているようだった。この短い瞬間に、今までの出来事でいいかげん乱れていた心は、身の破滅がとうとう来てしまったのだというおそろしい予想に押しひしがれて、頭は氷で巻かれたように冷たく気《け》うとくなった。胸から喉《のど》もとにつきあげて来る冷たいそして熱い球《たま》のようなものを雄々《おお》しく飲み込んでも飲み込んでも涙がややともすると目がしらを熱くうるおして来た。薄手《うすで》のコップに泡《あわ》を立てて盛られた黄金色《こがねいろ》の酒は葉子の手の中で細かいさざ波を立てた。葉子はそれを気取《けど》られまいと、しいて左の手を軽くあげて鬢《びん》の毛をかき上げながら、コップを事務長のと打ち合わせたが、それをきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に願《がん》でもほどけたように今までからく持ちこたえていた自制は根こそぎくずされてしまった。
 事務長がコップを器用に口びるにあてて、仰向きかげんに飲みほす間、葉子は杯を手にもったまま、ぐびりぐびりと動く男の喉《のど》を見つめていたが、いきなり自分の杯を飲まないまま盆の上にかえ
前へ 次へ
全170ページ中125ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング