の影の薄い一人《ひとり》の女として彼は自分を扱っているのではないか。自分には何物にも代え難《がた》く思われるけさの出来事があったあとでも、ああ平気でいられるそののんきさはどうしたものだろう。葉子は物心がついてから始終自分でも言い現わす事のできない何物かを逐《お》い求めていた。その何物かは葉子のすぐ手近にありながら、しっかり[#「しっかり」に傍点]とつかむ事はどうしてもできず、そのくせいつでもその力の下に傀儡《かいらい》のようにあてもなく動かされていた。葉子はけさの出来事以来なんとなく思いあがっていたのだ。それはその何物かがおぼろげながら形を取って手に触れたように思ったからだ。しかしそれも今から思えば幻影に過ぎないらしくもある。自分に特別な注意も払っていなかったこの男の出来心に対して、こっちから進んで情をそそるような事をした自分はなんという事をしたのだろう。どうしたらこの取り返しのつかない自分の破滅を救う事ができるのだろうと思って来ると、一秒でもこのいまわしい記憶のさまよう部屋の中にはいたたまれないように思え出した。しかし同時に事務長は断ちがたい執着となって葉子の胸の底にこびりついていた。この部屋をこのままで出て行くのは死ぬよりもつらい事だった。どうしてもはっきり[#「はっきり」に傍点]と事務長の心を握るまでは……葉子は自分の心の矛盾に業《ごう》を煮やしながら、自分をさげすみ果てたような絶望的な怒りの色を口びるのあたりに宿して、黙ったままA鬱《いんうつ》に立っていた。今までそわそわと小魔《しょうま》のように葉子の心をめぐりおどっていたはなやかな喜び――それはどこに行ってしまったのだろう。
 事務長はそれに気づいたのか気がつかないのか、やがてよりかかりのないまるい事務いすに尻《しり》をすえて、子供のような罪のない顔をしながら、葉子を見て軽く笑っていた。葉子はその顔を見て、恐ろしい大胆な悪事を赤児《あかご》同様の無邪気さで犯しうる質《たち》の男だと思った。葉子はこんな無自覚な状態にはとてもなっていられなかった。一足ずつ先《さき》を越されているのかしらんという不安までが心の平衡をさらに狂わした。
 「田川博士は馬鹿《ばか》ばかで、田川の奥さんは利口ばかというんだ。はゝゝゝゝ」
 そういって笑って、事務長は膝《ひざ》がしらをはっし[#「はっし」に傍点]と打った手をかえして、机
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