して、
「よくもあなたはそんなに平気でいらっしゃるのね」
と力をこめるつもりでいったその声はいくじなくも泣かんばかりに震えていた。そして堰《せき》を切ったように涙が流れ出ようとするのを糸切り歯でかみきるばかりにしいてくいとめた。
事務長は驚いたらしかった。目を大きくして何かいおうとするうちに、葉子の舌は自分でも思い設けなかった情熱を帯びて震えながら動いていた。
「知っています。知っていますとも……。あなたはほんとに……ひどい方《かた》ですのね。わたしなんにも知らないと思ってらっしゃるのね。えゝ、わたしは存じません、存じません、ほんとに……」
何をいうつもりなのか自分でもわからなかった。ただ激しい嫉妬《しっと》が頭をぐらぐらさせるばかりに嵩《こう》じて来るのを知っていた。男がある機会には手傷も負わないで自分から離れて行く……そういういまいましい予想で取り乱されていた。葉子は生来こんなみじめなまっ暗な思いに捕えられた事がなかった。それは生命が見す見す自分から離れて行くのを見守るほどみじめでまっ暗だった。この人を自分から離れさすくらいなら殺してみせる、そう葉子はとっさに思いつめてみたりした。
葉子はもう我慢にもそこに立っていられなくなった。事務長に倒れかかりたい衝動をしいてじっとこらえながら、きれいに整えられた寝台にようやく腰をおろした。美妙な曲線を長く描いてのどかに開いた眉根《まゆね》は痛ましく眉間《みけん》に集まって、急にやせたかと思うほど細った鼻筋は恐ろしく感傷的な痛々しさをその顔に与えた。いつになく若々しく装った服装までが、皮肉な反語のように小股《こまた》の切れあがったやせ形《がた》なその肉を痛ましく虐《しいた》げた。長い袖《そで》の下で両手の指を折れよとばかり組み合わせて、何もかも裂いて捨てたいヒステリックな衝動を懸命に抑《おさ》えながら、葉子は唾《つば》も飲みこめないほど狂おしくなってしまっていた。
事務長は偶然に不思議を見つけた子供のような好奇なあきれた顔つきをして、葉子の姿を見やっていたが、片方のスリッパを脱ぎ落としたその白足袋《しろたび》の足もとから、やや乱れた束髪《そくはつ》までをしげしげと見上げながら、
「どうしたんです」
といぶかるごとく聞いた。葉子はひったくるようにさそく[#「さそく」に傍点]に返事をしようとしたけれども、どうし
前へ
次へ
全170ページ中126ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング