ごしにかかって、時々鏡に映る自分の顔を見やりながら、こらえきれないようにぬすみ笑いをした。
一七
事務長のさしがね[#「さしがね」に傍点]はうまい坪《つぼ》にはまった。検疫官は絵島丸の検疫事務をすっかり[#「すっかり」に傍点]年とった次位の医官に任せてしまって、自分は船長室で船長、事務長、葉子を相手に、話に花を咲かせながらトランプをいじり通した。あたりまえならば、なんとかかとか必ず苦情の持ち上がるべき英国風の小やかましい検疫もあっさり[#「あっさり」に傍点]済んで放蕩者《ほうとうもの》らしい血気盛りな検疫官は、船に来てから二時間そこそこできげんよく帰って行く事になった。
停《と》まるともなく進行を止めていた絵島丸は風のまにまに少しずつ方向を変えながら、二人《ふたり》の医官を乗せて行くモーター・ボートが舷側《げんそく》を離れるのを待っていた。折り目正しい長めな紺の背広を着た検疫官はボートの舵座《かじざ》に立ち上がって、手欄《てすり》から葉子と一緒に胸から上を乗り出した船長となお戯談《じょうだん》を取りかわした。船梯子《ふなばしご》の下まで医官を見送った事務長は、物慣れた様子でポッケットからいくらかを水夫の手につかませておいて、上を向いて相図をすると、船梯子《ふなばしご》はきり[#「きり」に傍点]きりと水平に巻き上げられて行く、それを事もなげに身軽く駆け上って来た。検疫官の目は事務長への挨拶《あいさつ》もそこそこに、思いきり派手《はで》な装いを凝らした葉子のほうに吸い付けられるらしかった。葉子はその目を迎えて情をこめた流眄《ながしめ》を送り返した。検疫官がその忙しい間にも何かしきりに物をいおうとした時、けたたましい汽笛が一抹《いちまつ》の白煙を青空に揚げて鳴りはためき、船尾からはすさまじい推進機の震動が起こり始めた。このあわただしい船の別れを惜しむように、検疫官は帽子を取って振り動かしながら、噪音《そうおん》にもみ消される言葉を続けていたが、もとより葉子にはそれは聞こえなかった。葉子はただにこにことほほえみながらうなずいて見せた。そしてただ一時のいたずらごころから髪にさしていた小さな造花を投げてやると、それがあわよく検疫官の肩にあたって足もとにすべり落ちた。検疫官が片手に舵綱《かじづな》をあやつりながら、有頂点《うちょうてん》になってそれを拾おうとするの
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