を見ると、船舷《ふなばた》に立ちならんで物珍しげに陸地を見物していたステヤレージの男女の客は一斉《いっせい》に手をたたいてどよめいた。葉子はあたりを見回した。西洋の婦人たちは等しく葉子を見やって、その花々しい服装から軽率《かるはずみ》らしい挙動を苦々しく思うらしい顔つきをしていた。それらの外国人の中には田川夫人もまじっていた。
検疫官は絵島丸が残して行った白沫《はくまつ》の中で、腰をふらつかせながら、笑い興ずる群集にまで幾度も頭を下げた。群集はまた思い出したように漫罵《まんば》を放って笑いどよめいた。それを聞くと日本語のよくわかる白髪の船長は、いつものように顔を赤くして、気の毒そうに恥ずかしげな目を葉子に送ったが、葉子がはした[#「はした」に傍点]ない群集の言葉にも、苦々《にがにが》しげな船客の顔色にも、少しも頓着《とんじゃく》しないふうで、ほほえみ続けながらモーター・ボートのほうを見守っているのを見ると、未通女《おぼこ》らしくさらにまっ赤《か》になってその場をはずしてしまった。
葉子は何事も屈託なくただおもしろかった。からだじゅうをくすぐるような生の歓《よろこ》びから、ややもするとなんでもなく微笑が自然に浮かび出ようとした。「けさから私はこんなに生まれ代わりました御覧なさい」といってだれにでも自分の喜びを披露《ひろう》したいような気分になっていた。検疫官の官舎の白い壁も、そのほうに向かって走って行くモーター・ボートも見る見る遠ざかって小さな箱庭のようになった時、葉子は船長室でのきょうの思い出し笑いをしながら、手欄《てすり》を離れて心あてに事務長を目で尋ねた。と、事務長は、はるか離れた船艙《せんそう》の出口に田川夫妻と鼎《かなえ》になって、何かむずかしい顔をしながら立ち話をしていた。いつもの葉子ならば三人の様子で何事が語られているかぐらいはすぐ見て取るのだが、その日はただ浮き浮きした無邪気な心ばかりが先に立って、だれにでも好意のある言葉をかけて、同じ言葉で酬《むく》いられたい衝動に駆られながら、なんの気なしにそっちに足を向けようとして、ふと気がつくと、事務長が「来てはいけない」と激しく目に物を言わせているのが覚《さと》れた。気が付いてよく見ると田川夫人の顔にはまごうかたなき悪意がひらめいていた。
「またおせっかいだな」
一秒の躊躇《ちゅうちょ》もなく男のよう
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