く受け入れられた。そのくせ表面《うわべ》では事務長の存在をすら気が付かないように振る舞った。ことに葉子の心を深く傷つけたのは、事務長の物懶《ものう》げな無関心な態度だった。葉子がどれほど人の心をひきつける事をいった時でも、した時でも、事務長は冷然として見向こうともしなかった事だ。そういう態度に出られると、葉子は、自分の事は棚《たな》に上げておいて、激しく事務長を憎んだ。この憎しみの心が日一日と募って行くのを非常に恐れたけれども、どうしようもなかったのだ。
 しかし葉子はとうとうけさの出来事にぶっ突かってしまった。葉子は恐ろしい崕《がけ》のきわからめちゃくちゃに飛び込んでしまった。葉子の目の前で今まで住んでいた世界はがらっ[#「がらっ」に傍点]と変わってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って行かなければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安はどうした。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものは木《こ》っ葉《ぱ》みじんに無くなってしまっていた。倉地を得たらばどんな事でもする。どんな屈辱でも蜜《みつ》と思おう。倉地を自分ひとりに得さえすれば……。今まで知らなかった、捕虜の受くる蜜より甘い屈辱!
 葉子の心はこんなに順序立っていたわけではない。しかし葉子は両手で頭を押えて鏡を見入りながらこんな心持ちを果てしもなくかみしめた。そして追想は多くの迷路をたどりぬいた末に、不思議な仮睡状態に陥る前まで進んで来た。葉子はソファを牝鹿《めじか》のように立ち上がって、過去と未来とを断ち切った現在|刹那《せつな》のくらむばかりな変身に打ちふるいながらほほえんだ。
 その時ろくろくノックもせずに事務長がはいって来た。葉子のただならぬ姿には頓着《とんじゃく》なく、
 「もうすぐ検疫官がやって来るから、さっきの約束を頼みますよ。資本入らずで大役が勤まるんだ。女というものはいいものだな。や、しかしあなたのはだいぶ資本がかかっとるでしょうね。……頼みますよ」と戯談《じょうだん》らしくいった。
 「はあ」葉子はなんの苦もなく親しみの限りをこめた返事をした。その一声の中には、自分でも驚くほどな蠱惑《こわく》の力がこめられていた。
 事務長が出て行くと、葉子は子供のように足なみ軽く小さな船室の中を小跳《こおど》りして飛び回った。そして飛び回りながら、髪をほ
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