た。しかし男が葉子の目の前で弱味を見せた瞬間に、葉子は驕慢《きょうまん》な女王のように、その捕虜から面《おもて》をそむけて、その出来事を悪夢のように忌みきらった。冒険の獲物《えもの》はきまりきって取るにも足らないやくざものである事を葉子はしみじみ思わされた。
こんな絶望的な不安に攻めさいなめられながらも、その不安に駆り立てられて葉子は木村という降参人をともかくその良人《おっと》に選んでみた。葉子は自分がなんとかして木村にそり[#「そり」に傍点]を合わせる努力をしたならば、一生涯《いっしょうがい》木村と連れ添って、普通の夫婦のような生活ができないものでもないと一時思うまでになっていた。しかしそんなつぎはぎ[#「つぎはぎ」に傍点]な考えかたが、どうしていつまでも葉子の心の底を虫ばむ不安をいやす事ができよう。葉子が気を落ち付けて、米国に着いてからの生活を考えてみると、こうあってこそと思い込むような生活には、木村はのけ物になるか、邪魔者になるほかはないようにも思えた。木村と暮らそう、そう決心して船に乗ったのではあったけれども、葉子の気分は始終ぐらつき通しにぐらついていたのだ。手足のちぎれた人形をおもちゃ箱にしまったものか、いっそ捨ててしまったものかと躊躇《ちゅうちょ》する少女の心に似たぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]なためらいを葉子はいつまでも持ち続けていた。
そういう時突然葉子の前に現われたのが倉地事務長だった。横浜の桟橋につながれた絵島丸の甲板《かんぱん》の上で、始めて猛獣のようなこの男を見た時から、稲妻のように鋭く葉子はこの男の優越を感受した。世が世ならば、倉地は小さな汽船の事務長なんぞをしている男ではない。自分と同様に間違って境遇づけられて生まれて来た人間なのだ。葉子は自分の身につまされて倉地をあわれみもし畏《おそ》れもした。今までだれの前に出ても平気で自分の思う存分を振る舞っていた葉子は、この男の前では思わず知らず心にもない矯飾《きょうしょく》を自分の性格の上にまで加えた。事務長の前では、葉子は不思議にも自分の思っているのとちょうど反対の動作をしていた。無条件的な服従という事も事務長に対してだけはただ望ましい事にばかり思えた。この人に思う存分打ちのめされたら、自分の命は始めてほんとうに燃え上がるのだ。こんな不思議な、葉子にはあり得ない欲望すらが少しも不思議でな
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