っしゃってね、あの晩」
 「えゝいいました。……これで切ってもいいでしょう」
 「あらそんなものでもったいない……もっと低いものはおありなさらない?……シカゴではシカゴ大学にいらっしゃるの?」
 「これでいいでしょうか……よくわからないんです」
 「よくわからないって、そりゃおかしゅうござんすわね、そんな事お決めなさらずに米国《あっち》にいらっしゃるって」
 「僕は……」
 「これでいただきますよ……僕は……何」
 「僕はねえ」
 「えゝ」
 葉子はトランプをいじるのをやめて顔を上げた。岡は懺悔《ざんげ》でもする人のように、面《おもて》を伏せて紅《あか》くなりながら札をいじくっていた。
 「僕のほんとうに行く所はボストンだったのです。そこに僕の家で学資をやってる書生がいて僕の監督をしてくれる事になっていたんですけれど……」
 葉子は珍しい事を聞くように岡に目をすえた。岡はますますいい憎そうに、
 「あなたにおあい申してから僕もシカゴに行きたくなってしまったんです」
 とだんだん語尾を消してしまった。なんという可憐《かれん》さ……葉子はさらに岡にすり寄った。岡は真剣になって顔まで青ざめて来た。
 「お気にさわったら許してください……僕はただ……あなたのいらっしゃる所にいたいんです、どういうわけだか……」
 もう岡は涙ぐんでいた。葉子は思わず岡の手を取ってやろうとした。
 その瞬間にいきなり事務長が激しい勢いでそこにはいって来た。そして葉子には目もくれずに激しく岡を引っ立てるようにして散歩に連れ出してしまった。岡は唯々《いい》としてそのあとにしたがった。
 葉子はかっ[#「かっ」に傍点]となって思わず座から立ち上がった。そして思い存分事務長の無礼を責めようと身構えした。その時不意に一つの考えが葉子の頭をひらめき通った。「事務長はどこかで自分たちを見守っていたに違いない」
 突っ立ったままの葉子の顔に、乳房《ちぶさ》を見せつけられた子供のようなほほえみがほのかに浮かび上がった。

    一五

 葉子はある朝思いがけなく早起きをした。米国に近づくにつれて緯度はだんだん下がって行ったので、寒気も薄らいでいたけれども、なんといっても秋立った空気は朝ごとに冷《ひ》え冷《び》えと引きしまっていた。葉子は温室のような船室からこのきりっ[#「きりっ」に傍点]とした空気に触れようとし
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