めてやりたい心になった。葉子はそうした気分に促されて時々事務長のほうにひきつけられるように視線を送ったが、そのたびごとに葉子のひとみはもろくも手きびしく追い退けられた。
 こうして妙な気分が食卓の上に織りなされながらやがて食事は終わった。一同が座を立つ時、物慣らされた物腰で、椅子《いす》を引いてくれた田川|博士《はかせ》にやさしく微笑を見せて礼をしながらも、葉子はやはり事務長の挙動を仔細《しさい》に見る事に半ば気を奪われていた。
 「少し甲板に出てごらんになりましな。寒くとも気分は晴れ晴れしますから。わたしもちょと部屋《へや》に帰ってショールを取って出て見ます」
 こう葉子にいって田川夫人は良人《おっと》と共に自分の部屋のほうに去って行った。
 葉子も部屋に帰って見たが、今まで閉じこもってばかりいるとさほどにも思わなかったけれども、食堂ほどの広さの所からでもそこに来て見ると、息気《いき》づまりがしそうに狭苦しかった。で、葉子は長椅子の下から、木村の父が使い慣れた古トランク――その上に古藤が油絵の具でY・Kと書いてくれた古トランクを引き出して、その中から黒い駝鳥《だちょう》の羽のボアを取り出して、西洋臭いそのにおいを快く鼻に感じながら、深々と首を巻いて、甲板に出て行って見た。窮屈な階子段《はしごだん》をややよろよろしながらのぼって、重い戸をあけようとすると外気の抵抗がなかなか激しくって押しもどされようとした。きりっ[#「きりっ」に傍点]と搾《しぼ》り上げたような寒さが、戸のすきから縦に細長く葉子を襲った。
 甲板には外国人が五六人厚い外套《がいとう》にくるまって、堅いティークの床《ゆか》をかつかつと踏みならしながら、押し黙って勢いよく右往左往に散歩していた。田川夫人の姿はそのへんにはまだ見いだされなかった。塩気を含んだ冷たい空気は、室内にのみ閉じこもっていた葉子の肺を押し広げて、頬《ほお》には血液がちくちくと軽く針をさすように皮膚に近く突き進んで来るのが感ぜられた。葉子は散歩客には構わずに甲板を横ぎって船べりの手欄《てすり》によりかかりながら、波また波と果てしもなく連なる水の堆積《たいせき》をはるばるとながめやった。折り重なった鈍色《にぶいろ》の雲のかなたに夕日の影は跡形もなく消えうせて、闇《やみ》は重い不思議な瓦斯《がす》のように力強くすべての物を押しひしゃげていた
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