するような不愉快を感ずるので、狭苦しい寝台《バース》を取りつけたり、洗面台を据えたりしてあるその間に、窮屈に積み重ねられた小荷物を見回しながら、帯を解き始めた。化粧鏡の付いた箪笥《たんす》の上には、果物《くだもの》のかごが一つと花束が二つ載せてあった。葉子は襟前《えりまえ》をくつろげながら、だれからよこしたものかとその花束の一つを取り上げると、そのそばから厚い紙切れのようなものが出て来た。手に取って見ると、それは手札形の写真だった。まだ女学校に通っているらしい、髪を束髪《そくはつ》にした娘の半身像で、その裏には「興録さま。取り残されたる千代《ちよ》より」としてあった。そんなものを興録がしまい忘れるはずがない。わざと忘れたふうに見せて、葉子の心に好奇心なり軽い嫉妬《しっと》なりをあおり立てようとする、あまり手もとの見えすいたからくり[#「からくり」に傍点]だと思うと、葉子はさげすんだ心持ちで、犬にでもするようにぽい[#「ぽい」に傍点]とそれを床の上にほうりなげた。一人《ひとり》の旅の婦人に対して船の中の男の心がどういうふうに動いているかをその写真一枚が語り貌《がお》だった、葉子はなんという事なしに小さな皮肉な笑いを口びるの所に浮かべていた。
寝台の下に押し込んである平べったいトランクを引き出して、その中から浴衣《ゆかた》を取り出していると、ノックもせずに突然戸をあけたものがあった。葉子は思わず羞恥《しゅうち》から顔を赤らめて、引き出した派手《はで》な浴衣を楯《たて》に、しだらなく脱ぎかけた長襦袢《ながじゅばん》の姿をかくまいながら立ち上がって振り返って見ると、それは船医だった。はなやかな下着を浴衣の所々からのぞかせて、帯もなくほっそりと途方に暮れたように身を斜《しゃ》にして立った葉子の姿は、男の目にはほしいままな刺激だった。懇意ずくらしく戸もたたかなかった興録もさすがにどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]して、はいろうにも出ようにも所在に窮して、閾《しきい》に片足を踏み入れたまま当惑そうに立っていた。
「飛んだふうをしていまして御免くださいまし。さ、おはいり遊ばせ。なんぞ御用でもいらっしゃいましたの」
と葉子は笑いかまけたようにいった。興録はいよいよ度を失いながら、
「いゝえ何、今でなくってもいいのですが、元のお部屋のお枕《まくら》の下にこの手紙が残っていましたの
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