を、ボーイが届けて来ましたんで、早くさし上げておこうと思って実は何したんでしたが……」
といいながら衣嚢《かくし》から二通の手紙を取り出した。手早く受け取って見ると、一つは古藤が木村にあてたもの、一つは葉子にあてたものだった。興録はそれを手渡すと、一種の意味ありげな笑いを目だけに浮かべて、顔だけはいかにももっともらしく葉子を見やっていた。自分のした事を葉子もしたと興録は思っているに違いない。葉子はそう推量すると、かの娘の写真を床の上から拾い上げた。そしてわざと裏を向けながら見向きもしないで、
「こんなものがここにも落ちておりましたの。お妹さんでいらっしゃいますか。おきれいですこと」
といいながらそれをつき出した。
興録は何かいいわけのような事をいって部屋《へや》を出て行った。と思うとしばらくして医務室のほうから事務長のらしい大きな笑い声が聞こえて来た。それを聞くと、事務長はまだそこにいたかと、葉子はわれにもなくはっ[#「はっ」に傍点]となって、思わず着かえかけた着物の衣紋《えもん》に左手をかけたまま、うつむきかげんになって横目をつかいながら耳をそばだてた。破裂するような事務長の笑い声がまた聞こえて来た。そして医務室の戸をさっ[#「さっ」に傍点]とあけたらしく、声が急に一倍大きくなって、
「Devil take it! No tame creature then,eh?」と乱暴にいう声が聞こえたが、それとともにマッチをする音がして、やがて葉巻《はまき》をくわえたままの口ごもりのする言葉で、
「もうじき検疫《けんえき》船だ。準備はいいだろうな」
といい残したまま事務長は船医の返事も待たずに行ってしまったらしかった。かすかなにおいが葉子の部屋にも通《かよ》って来た。
葉子は聞き耳をたてながらうなだれていた顔を上げると、正面をきって何という事なしに微笑をもらした。そしてすぐぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としてあたりを見回したが、われに返って自分|一人《ひとり》きりなのに安堵《あんど》して、いそいそと着物を着かえ始めた。
一一
絵島丸が横浜を抜錨《ばつびょう》してからもう三日《みっか》たった。東京湾を出抜けると、黒潮に乗って、金華山《きんかざん》沖あたりからは航路を東北に向けて、まっしぐらに緯度を上《のぼ》って行くので、気温は二日《ふつか》目あたり
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