泣き沈んだ。その牛のうめき声のような泣き声が気疎《けうと》く船の上まで聞こえて来た。見送り人は思わず鳴りを静めてこの狂暴な若者に目を注いだ。葉子も葉子で、姿も隠さず手欄《てすり》に片手をかけたまま突っ立って、同じくこの若者を見据えていた。といって葉子はその若者の上ばかりを思っているのではなかった。自分でも不思議だと思うような、うつろな余裕がそこにはあった。古藤が若者のほうには目もくれずにじっ[#「じっ」に傍点]と足もとを見つめているのにも気が付いていた。死んだ姉の晴れ着を借り着していい心地《ここち》になっているような叔母《おば》の姿も目に映っていた。船のほうに後ろを向けて(おそらくそれは悲しみからばかりではなかったろう。その若者の挙動が老いた心をひしいだに違いない)手ぬぐいをしっかり[#「しっかり」に傍点]と両眼にあてている乳母《うば》も見のがしてはいなかった。
いつのまに動いたともなく船は桟橋から遠ざかっていた。人の群れが黒蟻《くろあり》のように集まったそこの光景は、葉子の目の前にひらけて行く大きな港の景色の中景になるまでに小さくなって行った。葉子の目は葉子自身にも疑われるような事をしていた。その目は小さくなった人影の中から乳母の姿を探り出そうとせず、一種のなつかしみを持つ横浜の市街を見納めにながめようとせず、凝然として小さくうずくまる若者ののらしい黒点を見つめていた。若者の叫ぶ声が、桟橋の上で打ち振るハンケチの時々ぎら[#「ぎら」に傍点]ぎらと光るごとに、葉子の頭の上に張り渡された雨よけの帆布《ほぬの》の端《はし》から余滴《したたり》がぽつり[#「ぽつり」に傍点]ぽつりと葉子の顔を打つたびに、断続して聞こえて来るように思われた。
「葉子さん、あなたは私を見殺しにするんですか……見殺しにするん……」
一〇
始めての旅客も物慣れた旅客も、抜錨《ばつびょう》したばかりの船の甲板に立っては、落ち付いた心でいる事ができないようだった。跡始末のために忙《せわ》しく右往左往する船員の邪魔になりながら、何がなしの興奮にじっ[#「じっ」に傍点]としてはいられないような顔つきをして、乗客は一人《ひとり》残らず甲板に集まって、今まで自分たちがそば近く見ていた桟橋のほうに目を向けていた。葉子もその様子だけでいうと、他の乗客と同じように見えた。葉子は他の乗客と同じように
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